玉川遠州流を嗜む 酒田の本間家とは? わかりやすく解説

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玉川遠州流を嗜む 酒田の本間家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 17:25 UTC 版)

玉川遠州流」の記事における「玉川遠州流を嗜む 酒田の本間家」の解説

山形県庄内地方豪商東北三大地主一人として知られる酒田本間家は、3代本間光丘(ほんま・みつおか)、4代本間光道(ほんま・こうどう)など俳諧嗜む当主輩出するなど、文化大切にすることを伝統としてきた。 【清遠閣】と【鶴舞園】は、1813年文化10年)に、庄内藩主が領内巡視をする際のお休み処として使用するため、4代光道が丁持(ちょうもち、港湾労働者)たちの冬期失業対策事業として築造した別荘である。しかし、別荘としては一度使われず、明治大正~昭和期酒田迎賓館として利用された。5代本間光暉(ほんま・こうき)、6代本間光美(ほんま・こうび)、8代本間光弥(ほんま・みつや)は玉川遠州流を嗜んだ。特に、5代光暉と6代光美が中心となって酒田茶の湯牽引し、【清遠閣】に多く貴賓名士迎え四季折々茶会催された。6代光美の時代明治大正期初めにかけて、酒田茶道隆盛極め玉川遠州流酒田茶道本流となった。【清遠閣】は、明治末に二階建て改装され上座敷と下座敷があり、入口右手茶室【六明廬(ろくめいろ)】がある。四方柾、床の間の脇床と違棚玉杢たまもく)を用い京風建築となっている。鳥海山借景に、蓬莱石組中心とする回遊式庭園として名高い鶴舞園】は、島の松に鶴飛んできたことから出羽庄内藩第8代藩主酒井忠器(ただかた)によって、【鶴舞園】と名付けられた。北前船運ばれ諸国銘石小豆島御影石大小灯籠が、時を経た木立風情を引立たせている。茶室【六明廬】。ここには、にじり口下地窓したじまど)など、6つ明かり取りがあることから、この名がある。自然の傾斜活かした茶室の庭、露地世俗の塵を払うこの空間は、山家風情感じさせる自然石蹲踞つくばい)と端正な春日型金山灯篭枝折戸しおりど)に立つ「西の屋灯篭」「六方石」が客人迎える。東宮殿下(後の昭和天皇)は、宮城県行われる陸軍特別大演習統監先立ち1925年大正14年10月14日酒田行啓し、【清遠閣】を御泊所としている。

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