玉川遠州流を嗜む 酒田の本間家
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「玉川遠州流」の記事における「玉川遠州流を嗜む 酒田の本間家」の解説
山形県庄内地方の豪商、東北三大地主の一人として知られる酒田の本間家は、3代本間光丘(ほんま・みつおか)、4代本間光道(ほんま・こうどう)など俳諧を嗜む当主を輩出するなど、文化を大切にすることを伝統としてきた。 【清遠閣】と【鶴舞園】は、1813年(文化10年)に、庄内藩主が領内巡視をする際のお休み処として使用するため、4代光道が丁持(ちょうもち、港湾労働者)たちの冬期失業対策事業として築造した別荘である。しかし、別荘としては一度も使われず、明治~大正~昭和期に酒田の迎賓館として利用された。5代本間光暉(ほんま・こうき)、6代本間光美(ほんま・こうび)、8代本間光弥(ほんま・みつや)は玉川遠州流を嗜んだ。特に、5代光暉と6代光美が中心となって酒田の茶の湯を牽引し、【清遠閣】に多くの貴賓、名士を迎え、四季折々の茶会が催された。6代光美の時代、明治~大正期の初めにかけて、酒田茶道は隆盛を極め、玉川遠州流は酒田茶道の本流となった。【清遠閣】は、明治末に二階建てに改装され、上座敷と下座敷があり、入口の右手に茶室【六明廬(ろくめいろ)】がある。柱は檜の四方柾、床の間の脇床と違棚は欅の玉杢(たまもく)を用い、京風建築となっている。鳥海山を借景に、蓬莱石組を中心とする回遊式庭園として名高い【鶴舞園】は、島の松に鶴が飛んできたことから出羽庄内藩の第8代藩主酒井忠器(ただかた)によって、【鶴舞園】と名付けられた。北前船で運ばれた諸国の銘石と小豆島の御影石の大小の灯籠が、時を経た木立の風情を引立たせている。茶室【六明廬】。ここには、にじり口や下地窓(したじまど)など、6つの明かり取りがあることから、この名がある。自然の傾斜を活かした茶室の庭、露地。世俗の塵を払うこの空間は、山家の風情を感じさせる。自然石の蹲踞(つくばい)と端正な春日型金山灯篭、枝折戸(しおりど)に立つ「西の屋灯篭」「六方石」が客人を迎える。東宮殿下(後の昭和天皇)は、宮城県で行われる陸軍特別大演習統監に先立ち、1925年(大正14年)10月14日酒田へ行啓し、【清遠閣】を御泊所としている。
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