大富豪パーリ=デュヴェルネーとの出会い
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「カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「大富豪パーリ=デュヴェルネーとの出会い」の解説
最初の妻を失った翌年、母をも失った。結婚生活で生じた借金のおかげで財政的には極めて苦しかったため、仕事に励む一方で、相次いで大切な人を失った寂しさを紛らわせるために文学と音楽に打ち込んだ。16世紀から18世紀まで幅広く、しかも外国の作家にまで傾倒していたという。幼い頃から音楽に親しんで来たことは先述したが、ボーマルシェ自身もハープの名手であり、当時は新しい楽器であったハープに改良ペダルをつけ、より音色が美しくなるように工夫するなどして宮廷で評判をとっていた。ルイ15世の4人の王姫はボーマルシェの楽才に魅せられ、たちまちとりことなり、彼に自身の音楽教師となるように要請した。この要請に、ボーマルシェ自身の男性的な魅力が影響していたかどうかはわからない。ボーマルシェは音楽を専門としているわけでもなく、単なる小役人に過ぎなかったため、金銭をもらってレッスンすることはできなかった。無料での労働であったわけだが、王姫の機嫌を損ねでもしたらすぐに国王の知るところとなって、単なる小役人の首などすぐに吹っ飛ぶため(職と命、ともに簡単に飛ぶ)、細心の注意を払ってレッスンに臨んだに違いない。神経をすり減らしつつ、才気と魅力を最大限に活用して王姫たちに仕えた結果、彼女たちから絶大な信頼を獲得するに至ったのである。 ルイ15世の王姫たち。左からアデライード、ヴィクトワール、ソフィー、ルイーズ 4人の王姫たちから絶大な信頼を獲得していたことは、当時のボーマルシェが起こした決闘事件の顛末からも明白である。ある貴族に侮辱、挑発されたボーマルシェは、当時禁止されていた決闘に応じて、相手に重傷を負わせた。決闘を行うことだけでも重罪であったが、もし相手の口から自身の名前が出た場合、復讐や処罰の対象となってしまうので、それを恐れて王姫たちに庇護を求めたのである。王姫たちは事情を父である国王に打ち明け、決闘事件に関する口止め工作を了承した。幸いなことに相手の貴族が「原因は自分自身にある」としてそのまま死んでいったため、工作を行う必要はなくなったが、この一件は国王家からの篤い信頼を獲得していたことの裏付けとなっている。 王姫たちへのレッスンは国王家の信頼を獲得するのに役だっただけでなく、ボーマルシェの財政状況の改善へも間接的に影響を与えた。直接的な影響としては、王姫たちの気ままな買い物やコンサートの費用を立て替えたり、王家に仕える者としての身なりを整える費用やらで、むしろ悪影響を与えたともいえるが、彼女たちを通じて国王家の信頼を勝ち取ったことで、18世紀における最大の金満家であるパーリ=デュヴェルネーと出会い、一気に財政状況が改善されたのである。 ルイ15世治下のフランス経済は、4人のパーリ兄弟によって動かされていた。パーリ=デュヴェルネーはその3番目であったが、兄弟の中でも特に商才に長けていたという。ルイ15世の愛人ポンパドゥール夫人などの貴族たちと結びついて急速にのし上がっていき、オーストリア継承戦争や七年戦争の折にはフランス王国軍の御用商人となり、巨万の富を築いた。1751年にポンパドゥール夫人と組んで士官学校の建設に乗り出し、1750年代末にはほとんど完成していたが、ちょうど運悪くフランスが七年戦争でイギリスに敗北を喫したころであり、ポンパドゥール夫人との不仲もあって、ルイ15世はこの士官学校に極めて冷たい態度を示した。すでに75歳と、当時としてはかなりの老齢であったパーリ=デュヴェルネーにすれば、後世に遺す自らの記念碑が王に冷たくあしらわれるなど心中穏やかでなく、どうにかしようとあれこれ動いて万策尽きた結果、国王家の信頼の篤いボーマルシェに目を留めたのであった。 野心みなぎるボーマルシェのことだから、この大金持ちの老人に恩を売っておけばどれほどの見返りがあるか、瞬時に理解したことだろう。ボーマルシェはこの富豪に恩を売るべく、まず4人の王姫たちに目を付けた。日ごろから彼女たちの願いにきちんと確実に答えてきた彼にとって、退屈しきった彼女を口車に乗せて、若い男の大勢いる士官学校に連れていくことなどたやすいことであった。士官学校を訪れた彼女たちはデュヴェルネーによって盛大に迎えられ、彼に向ってボーマルシェを褒めちぎるなど、大満足して帰っていったという。士官学校を訪れた娘たちが喜んでいるのを知って、国王ルイ15世は大いに心を動かされ、1760年8月12日、ついに士官学校を訪問したのだった。悲願を果たしたデュヴェルネーは、ボーマルシェにそのお礼として、様々な経済的な援助を惜しみなく与えた。6000リーヴルの年金、得意の金融業での助言、指導、融資など、窮乏に苦しんでいるボーマルシェにとってはどれも有り難いものばかりであった。こうして一気に財政状況は改善され、以後鰻登りのごとく、豊かになっていったのである。 1761年12月、ボーマルシェはデュヴェルネーに用立ててもらった55000リーヴルに、手持ち金30000リーヴルを加えて、「国王秘書官」という肩書を購入した。この肩書は「平民の化粧石鹸」などと呼ばれて蔑視されていたが、間違いなく金になる肩書であり、その上購入者の身分がどうであれ正式に貴族として認められる職業であった。さらに1762年に入ると、当時フランスを18の区に分けて管轄していた「森林水資源保護長官」のひとつに空きが出た。巨額の収入をもたらすポストであり、それだけに値段も高かったが(現在の日本円で5000万前後)、デュヴェルネーは惜しげもなくこれに必要な資金を提供した。この時は他の長官たちの猛反対に遭って、王姫たちの後押しも虚しく手に入れることはできなかったが、その代わりに翌年になって「ルーヴル狩猟区王室料地管理ならびに国王代官区における狩猟総代官」なる肩書を手に入れた。王室の料地を管理し、密猟者がいれば捕縛して裁くのが任務である。「代官」とあるように本来は「管理長官」たるラ・ヴァリエール公爵が任務にあたるべきなのだが、ほとんどの仕事をボーマルシェがこなしたという。彼は1785年まで、22年間に亘ってこの仕事を続けた。この肩書を手に入れたのと同じころ、4階建ての家を建て、父親と2人の妹を引き取ったり、ポリーヌ・ルブルトンという西インド諸島出身の女性と恋仲になったりしている。ポリーヌは大変な美女であったらしいが、所有地に関連して負債を抱えていたために、再婚には慎重になっていたようだ。フランケ夫人との結婚の後始末で、ずいぶん辛酸を舐めたことが影響しているのだろう。
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