大富豪パーリ=デュヴェルネーとの出会いとは? わかりやすく解説

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大富豪パーリ=デュヴェルネーとの出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 09:29 UTC 版)

カロン・ド・ボーマルシェ」の記事における「大富豪パーリ=デュヴェルネーとの出会い」の解説

最初の妻失った翌年、母をも失った結婚生活生じた借金おかげで財政的に極めて苦しかったため、仕事に励む一方で相次いで大切な人失った寂しさ紛らわせるために文学と音楽打ち込んだ16世紀から18世紀まで幅広く、しかも外国作家にまで傾倒していたという。幼い頃から音楽親しんで来たことは先述したが、ボーマルシェ自身ハープ名手であり、当時新しい楽器であったハープ改良ペダルをつけ、より音色美しくなるように工夫するなどして宮廷評判とっていた。ルイ15世の4人の王姫はボーマルシェ楽才に魅せられ、たちまちとりことなり彼に自身音楽教師となるように要請した。この要請に、ボーマルシェ自身男性的な魅力影響してたかどうかはわからないボーマルシェ音楽専門としているわけでもなく、単なる小役人に過ぎなかったため、金銭もらってレッスンすることはできなかった。無料での労働であったわけだが、王姫の機嫌損ねでもしたらすぐに国王の知るところとなって単なる小役人の首などすぐに吹っ飛ぶため(職と命、ともに簡単に飛ぶ)、細心の注意払ってレッスン臨んだ違いない神経をすり減らしつつ、才気魅力最大限活用して王姫たちに仕えた結果彼女たちから絶大な信頼獲得する至ったのであるルイ15世の王姫たち。左からアデライードヴィクトワールソフィールイーズ 4人の王姫たちから絶大な信頼獲得していたことは、当時ボーマルシェ起こした決闘事件の顛末からも明白である。ある貴族侮辱挑発されボーマルシェは、当時禁止されていた決闘に応じて相手重傷を負わせた。決闘を行うことだけでも重罪であったが、もし相手の口から自身の名前が出た場合復讐処罰対象となってしまうので、それを恐れて王姫たちに庇護求めたのである。王姫たちは事情を父である国王打ち明け決闘事件に関する口止め工作了承した幸いなことに相手貴族が「原因自分自身にある」としてそのまま死んでいったため、工作を行う必要はなくなったが、この一件国王家からの篤い信頼獲得していたことの裏付けとなっている。 王姫たちへのレッスン国王家の信頼獲得するのに役だっただけでなく、ボーマルシェ財政状況改善へも間接的に影響与えた直接的な影響としては、王姫たちの気まま買い物コンサート費用立て替えたり、王家仕える者としての身なり整え費用やらで、むしろ悪影響与えたともいえるが、彼女たち通じて国王家の信頼勝ち取ったことで、18世紀における最大金満家であるパーリ=デュヴェルネーと出会い一気財政状況改善されのであるルイ15世治下フランス経済は、4人のパーリ兄弟によって動かされていた。パーリ=デュヴェルネーはその3番目であったが、兄弟中でも特に商才長けていたという。ルイ15世愛人ポンパドゥール夫人などの貴族たちと結びついて急速にのし上がっていき、オーストリア継承戦争七年戦争の折にはフランス王国軍の御用商人となり、巨万の富を築いた1751年ポンパドゥール夫人組んで士官学校建設乗り出し1750年代末にはほとんど完成していたが、ちょうど運悪くフランス七年戦争イギリス敗北喫したころであり、ポンパドゥール夫人との不仲もあって、ルイ15世はこの士官学校極めて冷たい態度示した。すでに75歳と、当時としてはかなりの老齢であったパーリ=デュヴェルネーにすれば後世遺す自らの記念碑が王に冷たくあしらわれるなど心中穏やかでなく、どうにかしようあれこれ動いて万策尽きた結果国王家の信頼篤いボーマルシェに目を留めたのであった野心みなぎるボーマルシェことだから、この大金持ち老人に恩を売っておけばどれほど見返りがあるか、瞬時理解したことだろう。ボーマルシェはこの富豪恩を売るべく、まず4人の王姫たちに目を付けた日ごろから彼女たち願いにきちんと確実に答えてきた彼にとって、退屈しきった彼女を口車に乗せて若い男大勢いる士官学校に連れていくことなどたやすいことであった士官学校訪れた彼女たちはデュヴェルネーによって盛大に迎えられ彼に向ってボーマルシェ褒めちぎるなど、大満足して帰っていったという。士官学校訪れた娘たち喜んでいるのを知って国王ルイ15世大いに心を動かされ1760年8月12日、ついに士官学校訪問したのだった悲願果たしたデュヴェルネーは、ボーマルシェにそのお礼として、様々な経済的な援助惜しみなく与えた6000リーヴル年金、得意の金融業での助言指導融資など、窮乏苦しんでいるボーマルシェにとってはどれも有り難いものばかりであった。こうして一気財政状況改善され以後鰻登りのごとく、豊かになっていったのである1761年12月ボーマルシェはデュヴェルネーに用立ててもらった55000リーヴルに、手持ち30000リーヴル加えて、「国王秘書官」という肩書購入した。この肩書は「平民化粧石鹸」などと呼ばれて蔑視されていたが、間違いなく金になる肩書であり、その上購入者身分がどうであれ正式に貴族として認められる職業であった。さらに1762年に入ると、当時フランス18の区に分けて管轄していた「森林水資源保護長官」のひとつに空き出た巨額収入もたらすポストであり、それだけ値段高かったが(現在の日本円5000前後)、デュヴェルネーは惜しげもなくこれに必要な資金提供した。この時は他の長官たちの猛反対遭って、王姫たちの後押し虚しく手に入れることはできなかったが、その代わり翌年になってルーヴル狩猟王室料地管理ならびに国王代官区における狩猟総代官」なる肩書手に入れた王室料地管理し密猟者がいれば捕縛して裁くのが任務である。「代官」とあるように本来は「管理長官」たるラ・ヴァリエール公爵任務にあたるべきなのだが、ほとんどの仕事ボーマルシェこなしたという。彼は1785年まで、22年間に亘ってこの仕事続けた。この肩書手に入れたのと同じころ、4階建ての家を建て、父親2人の妹を引き取ったり、ポリーヌ・ルブルトンという西インド諸島出身女性恋仲になったりしている。ポリーヌ大変な美女であったらしいが、所有地に関連して負債抱えていたために、再婚には慎重になっていたようだフランケ夫人との結婚後始末で、ずいぶん辛酸舐めたことが影響しているのだろう。

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