大学の父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 07:32 UTC 版)
「トーマス・ジェファーソン」の記事における「大学の父」の解説
「バージニア大学」も参照 ジェファーソンは大統領職を辞した後も、公的な事業での活動を続けた。アダムズとも復縁し多くの書簡を交わした。新しい高等教育機関の設立に次第に関心を寄せるようにもなり、特に他の大学では提供していないような新しい多くの分野で学生達が専門化できる、教会の影響のない機関にこだわった。ジェファーソンは人を教育することは組織化された社会を造るための良い方法だと考え、学校は一般大衆によってその費用を賄われることで、それほど裕福でない者でも学ぶことができるようにすべきだと考えた。1800年1月にイギリス出身の化学者ジョゼフ・プリーストリーに宛てた手紙で大学をずっと前から作ろうと思ってきたことを伝えていた。 その夢は1819年にバージニア大学を創立することで実現した。当時、バージニア住民は高等教育を受けるために他州に行く必要があった。1825年に開校したとき、学生に選択コースリストを提供したことでは初めての大学になった。大学は当時の北アメリカで最大級の建設プロジェクトとなり、教会ではなく図書館を中心に据えたことで特徴があった。当初の計画ではキャンパスに礼拝堂が無かった。ジェファーソンは死ぬまで学生や教員を自宅に招いた。 ジェファーソンはバージニア大学敷地の建築設計に携わったと広く認められている。それは新しい共和国で州が提供する教育と農業民主主義という強い願望を強烈に表明する革新的なデザインになった。学びのための特化された施設を創設するというその教育に関する概念は、自身が「学際村」と呼んだキャンパス配置計画に具体的に現されている。個々の学術施設は芝生のある中庭に面したパビリオンによって視覚的に特徴ある形に現され、各パビリオンには教室、教員室および住宅を収容している。個々の建物は特徴あるが視覚的な重要性では平等であり、学生の宿泊設備の前面ファサードになっている屋外アーケードで繋がれている。背面には庭園や菜園があり、蛇行した壁で囲まれ農本的生活様式の重要性を主張している。 ジェファーソンが特に注文した配置計画はザ・ローンと名付けた中央の矩形の中庭を取り囲む建物群の調和であり、その中庭の端は教室とそれを繋ぐアーケードで仕切られている。中庭の一端はテーブル上座にあたる場所で、知識の宝庫である図書館で仕切られている。図書館の反対側は将来の拡張のために開放されたままだった。芝生は一連の階段つきテラスの所でせりあがり、他の部分よりは数フィート高くなっている。頂点として最も目立つ場所にある図書館まで立ち上がっている。一方でこの学際村が将来への容易な動きを与えることも示唆している。 建築様式を見ると、ジェファーソンが歴史的連想でアメリカの民主主義を最もよく現すものと考えた古代ギリシャ様式やローマ様式の提唱者だった。各学術棟は中庭に面した2階建ての寺院として設計され、図書館はローマのパンテオンを模されている。中庭を取り囲む建物の調和は、間違いなく非宗教的な公共教育の重要性を建築的に表明したものであり、宗教色の排除は政教分離原則を補強している。このキャンパスの計画と建築上の扱いは今日でも知的考え方と願望を表現するためのビル建築のパラダイムとして機能している。アメリカ建築学会会員による調査によって、このジェファーソンのキャンパスをアメリカで最も意義ある建築作品と評価した。 この大学はバージニアの教育体系の頂点に来るものとして考案された。ジェファーソンの考えでは州内の市民なら誰でも一定の能力基準を満たすだけで入学できるものとされた。
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