大坂の役
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慶長19年(1614年)、大坂の陣が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らを補佐した。冬の陣では6,000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。 翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山(現:玉手山公園近隣)に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁(幸村)らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣・片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死したとされている。享年56。
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大坂の役
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慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では主要な武将の1人として籠城戦の総指揮を執り、船場方面(西側)の守備を統括した。 膠着状態の中、12月、塙直之(団右衛門)や米田監物らと共に本町橋から蜂須賀隊への夜襲を敢行して勝利した。 しかし包囲の長期化により和議派が台頭すると、治房は主戦派の筆頭として、兄らとも対立する。結局、治長と織田有楽の主導で徳川方との和睦が成立した。和睦後、治長が城内で襲われて負傷したが、これは治房が襲撃させたとも言われる。 慶長20年(1615年)4月に徳川家との和睦が破綻し、大坂夏の陣が始まると、4月27日、治房は大和郡山城を攻略するため2千余の兵の指揮を執り暗峠を越えて、ほとんど空城となっていた郡山城を攻撃して筒井定慶を逐い、城下を焼き払った。28日、治房は槙島玄蕃等と、住吉・堺に火を放ち、徳川方の水軍・向井忠勝・九鬼守隆らと交戦した。29日、更に治房は紀伊の浅野長晟を攻撃するため和歌山城を目指した。同時に紀伊および和泉で一揆を煽動し、豊臣軍の紀伊攻撃に呼応させる計画であった。治房は一揆勢の蜂起と呼応して攻めようと考えていたが、塙直之ら豊臣軍の先鋒と浅野勢との間で戦闘が開始されたため、戦場である樫井へ急いだ。しかし到着する前に塙直之らの部隊は壊滅し、浅野勢も退却していたため、大坂に引き返した。 詳細は「郡山城 (大和国)#郡山城の戦い」および「樫井の戦い」を参照 5月7日、最後の決戦のため豊臣方は大坂城を出発し、治房は左翼岡山口の主将として計4,600の軍勢で布陣した。戦闘が始まると、治房隊は徳川勢先鋒の前田隊を攻撃、これを支援するために井伊隊・藤堂隊が動くと、混乱に乗じて前進配置した徳川秀忠旗本の一部に殺到して大混乱に陥れた。しかし次第に秀忠軍が反撃に転じ始め戦況が不利になると、治房は敗兵を収容しつつ城内に撤退した。その後、城が炎上すると玉造口から逃亡した。
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