大坂の陣での活躍~復権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/21 08:28 UTC 版)
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では井伊直孝隊に属した。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも引き続き井伊直孝隊に属し、5月6日に大坂城南部の若江で木村重成の軍勢と衝突。井伊勢は大損害をこうむったが、重成の軍勢を壊滅させることに成功し、隆庸は敵方の首級をえるなど功を挙げた。この時、隆庸の従者達も敵方の首級をえている(若江の戦い)。5月7日には井伊直孝隊は徳川秀忠軍に属し大坂城下の岡山で大野治房の軍勢と戦っている。治房の軍勢は秀忠の軍勢の先鋒を破り、秀忠の本陣に迫ったが、隆庸が属する井伊直孝隊の奮闘よって撃退に成功している。その時の隆庸の活躍は『寛政重修諸家譜』の『皆川系図』に「七日味方少しやぶるるといえども、隆庸その場を退かず」と記されている。 それらの功績によって元和9年(1623年)、父と共に赦免され、常陸行方郡に5,000石の所領を与えられて徳川家光に仕えた。寛永2年(1625年)、父の隠居によりその所領1万石も継ぎ、合計1万5,000石を領する大名となった。このとき、弟の宗富に1,700石(1,070余石とも)を分与している。
※この「大坂の陣での活躍~復権」の解説は、「皆川隆庸」の解説の一部です。
「大坂の陣での活躍~復権」を含む「皆川隆庸」の記事については、「皆川隆庸」の概要を参照ください。
- 大坂の陣での活躍~復権のページへのリンク