大坂の陣後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:19 UTC 版)
妙慶寺などに残る伝承によると、顕性院が大坂の陣後、宣隆(宣家)の室となる過程は、以下のようなものである。 慶長19年(1614年)、父・信繁の大坂城入城に伴って、母・隆清院とともに大坂城下に入ったが、大坂夏の陣の2か月ほど前に、妊娠中であった隆清院と12歳のお田は京に逃れた。母娘はまず、嵯峨野にいた曾祖母・瑞龍院日秀尼のもとに身を寄せた。しかし、大坂落城の後、残党狩りが厳しくなったことから、母は姉の嫁ぎ先である梅小路家へ、お田は諸所を転々とした。やがてお田は捕えられて江戸に送られたが、伯父・真田信之の嘆願により処分は軽く、江戸城大奥で奉公をすることで落着した。お田は3年間、大奥で奥女中として勤めた後、京に帰ることを許された。母の隆清院は梅小路家で男子・左馬之助を産んだのち、米屋次郎兵衛という町屋に移り、左馬之助と暮らしていた。 寛永3年(1626年)6月、将軍徳川家光、大御所秀忠が上洛したが、これに供奉して京の二条城に入った佐竹義宣の給仕女となった。ある早朝、お田が裏庭で他の下女たちに薙刀の訓練をしていたことから、これに感じ入った義宣に出自を問われ、真田信繁の遺児と判明したため、義宣の仲介により宣家の側室となった。
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