大坂や各都市での収拾策
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「天明の打ちこわし」の記事における「大坂や各都市での収拾策」の解説
全国を席巻した打ちこわしの基点となった大坂では、打ちこわしが大坂全域に広まった天明7年5月12日(1787年6月27日)夜に、大坂町奉行所から困窮者に対して施行を実施するよう町触が出され、町触を受けて翌天明7年5月13日(1787年6月28日)から大坂各所で困窮者に対する米の安価での販売など、施行が開始された。施行にかかる費用は主に大商人や両替店などが負担した。また大坂では大坂外への米の搬出を原則禁止とし、止むを得ない場合には申し出るように指示する他所売積差略令を天明7年5月25日(1787年7月10日)に公布した。同様の命令は兵庫でも天明7年5月28日(1787年7月13日)に出されており、これは米の搬出を差し止めることによって大坂、兵庫での米の絶対量確保を図ったものであったが、大坂からの米の供給に頼っていた畿内各地にとって、他所売積差略令は死活問題であった。特に大坂に近くしかも米の多くを大坂市場に依存していた京都の危機感は強く、京都、伏見への米の搬出は他所売積差略令の例外とするように再三申し入れがなされ、まず京都、伏見への米の搬出は天明7年6月7日(1787年7月21日)に少々であれば認めることとなった。しかし後述の御所千度参りの発生と高揚、それに伴う朝廷から幕府に対する困窮者救援の申し入れ、更には京都以外の畿内各所での米の流通不足による危機感の高まりによって、天明7年7月25日(1787年9月6日)、大坂から各地への米麦以外の雑穀の搬出を自由化し、天明7年8月19日(1787年9月30日)には米麦の搬出も自由化された。替わって天明7年7月27日(1787年9月8日)、幕府は大坂城代に対して酒造を三分の一に制限する命令を出し、米を消費する酒造を制限することで米の絶対量を確保する方策を採ることとなった。 また大坂では天明7年7月6日(1787年8月18日)に、老中から貧困者を対象とした支給を認める旨の指示が出され、実際天明7年8月17日(天明7年8月17日)に大坂町奉行所は極度の貧困状態に追い込まれている29564人に対し、総計約500石の米の支給を行った。このような対策は駿府などでも老中の指示で実施に移されていた。これは全国で同時多発的に発生した打ちこわしを受けて、幕府としても遅ればせながら困窮に追い込まれた庶民に対する具体的な救援に乗り出したことを示している。
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