報道協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 11:59 UTC 版)
「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「報道協定」の解説
長野事件の発覚直後、長野県警は事件が公開されることにより、(当時安否不明だった)被害者Bの生命に危険がおよぶことを防ぐため、日本新聞協会に加盟している報道機関164社と報道協定を締結。これを受け、協定を締結した新聞・放送各社は事件そのものの報道や、被害者Bの関係先(自宅や勤務先)・友人宅および、犯人が立ち回ったと見られる場所などについての取材を自粛してきた。 しかし、本事件は犯人側からの連絡が途絶えて以降、捜査は難航し、報道協定がいたずらに長期化する状態が続いた。そのような状況の中、報道側は「生死の判断材料がない」として協定解除に消極的だったが、『週刊新潮』(新潮社)の記者を名乗る記者が、同月22日ごろから県警本部や一部の新聞社を対象に、「協定期間が長すぎるのではないか」と取材を開始した。一方、警察庁と日本雑誌協会の間では、かねてから「誘かい事件等の取材、報道の取り扱い」が慣行化しており、22日に同誌記者の取材を受けた長野県警広報官の伊藤義久は、「当然、報道協定に準ずるだろう」と思い、事件について受け答えしたが、同誌側は同月23日ごろ、「協定に加わっていないので報道したい」という意向を表明。これに対し、長野県警は協定に準じて報道を自粛するよう要請したほか、翌24日および25日には県警本部と警察庁の名義で報道自粛を申し入れたが、拒否された。 結局、『週刊新潮』は1980年4月3日号(3月27日発売)で、被害者Bの実名や写真を含め、本事件の詳細を報道。これを受け、報道各社は緊急支局長会・記者クラブ総会を開き、長野県警本部と協議し、『週刊新潮』が東京都内で販売された26日15時前後から、24時間にわたって動向を観察。犯人側の動きがなかったため、長野県警は「事件が詳細に報道され、報道協定を継続するメリットが失われた。また、発生から相当長期間が経過し、ここで協定を解除しても、被害者の身に新たな危険がおよぶことは考えがたい」として、同月27日15時に事件を公開捜査に切り替え、報道協定も解除した。報道協定が締結された身代金目的誘拐事件は、1970年(昭和45年)以降、本事件で66件目だったが、犯人逮捕や被害者の発見に至らない段階で報道協定が解除された事例は、本事件が初だった。 『週刊新潮』編集部は、報道協定継続中に本事件の報道に踏み切った理由について、「発生から3週間が経過し、報道協定が事件解決の役に立たなくなった」と説明したが、警察庁長官の山本鎮彦は『週刊新潮』の報道に遺憾の意を示し、同庁は電話で『週刊新潮』に抗議した。被害者の安否が判明していない中で、週刊誌が報道を行ったことは様々な課題を残した。日本新聞協会は同月10日の編集委員会で、今後は報道協定が長期化した場合、協定を継続すべきか否かについて協議することを確認した。また同月中旬、警察庁は日本雑誌協会に対し、誘拐報道について理解と協力を要望するとともに、それまでの慣行を明文化し、警察庁との合意事項とするよう申し入れ、雑誌協会側もそれを受諾。同年7月、雑誌協会が警察庁との間で「誘かい事件等に関する取材及び報道の取り扱い方針」について合意したことで、同協会加盟社も新聞協会加盟社と同じく、誘拐事件発生時に警察から要請があった場合は報道を自制することとなった。同年8月に発生した司ちゃん誘拐殺人事件は、雑誌が報道協定に加わった史上初の事例となっている。
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