報道、災害支援イベントなどでの映像メディアの活用
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「1888年の磐梯山噴火」の記事における「報道、災害支援イベントなどでの映像メディアの活用」の解説
読売新聞は自社の特派員を現地に派遣しなかった。しかし磐梯山噴火の被災地を訪れていた田中智学と写真師の吉原秀雄に着目し、田中の紀行文に吉原の撮影した写真を付けて、8月5日から10月6日の間、全30回の「磐梯紀行」として掲載した。なお、当時の日本ではまだ写真製版の技術は実用化されていなかったため、吉原の撮影した写真は銅版画に写され、新聞紙上に印刷された。ただし当時はこの銅版画に転写された「写真」は、版画ではなく写真として受け入れられた。日本で写真製版が新聞紙上で実用化されるのは1890年(明治23年)のことで、1888年の磐梯山噴火は、これまでの写真を木版に転写した「写真版画」から写真製版に移行する、まさに過渡期にあったことを示している。 田中の現地ルポルタージュと吉原の銅板写真は、新聞紙上における写真の先駆的な利用、つまり報道写真という新たな視覚文化の誕生を意味しており、読者から大好評を受け、部数の拡張に貢献した。また読売新聞は7月中は他紙に比べて磐梯山噴火の報道は多くなかった。しかし他紙の磐梯山報道が少なくなっていく8月以降、むしろ報道に積極的となり、義援金の募集を兼ねたイベントの告知や義捐金そのものの募集関連の記事、広告が目立つようになった。 田中智学は読売新聞紙上で「磐梯紀行」を発表するばかりではなく、磐梯山の現地視察の成果をより効果的に生かそうとした。もともと田中は新聞紙上に視察の成果を発表する予定はなかった。当初の目的は幻灯を用いて幻灯会を開催し、磐梯山噴火の様子を多くの人々に知らせることによって救援活動に生かそうと考えたのである。明治20年代に入ってこれまで高価で普及が進まなかった幻灯機も値段が下がってきて、次第に広まりつつあった。 知人の写真師、吉原を説き伏せた田中は、7月20日、ともに磐梯山の現地に向かった。帰京後、吉原が撮影した写真はスライド化され、8月から9月にかけて東京とその近郊の各地で田中の解説のもとで幻灯会が開催された。この幻灯会では入場料10銭が徴収され、会場で義援金も募集されたが、ともに田中、吉原の名前で被災地に送られた。この幻灯会は好評を博し、幻灯が流行するきっかけとなったと見られている。 田中と吉原の磐梯山噴火幻灯会の観客に、尾上菊五郎がいた。幻灯会終了後、尾上菊五郎は田中を訪ね改めて話を聞いた後、10月から「是万代話柄 音聞浅間幻燈画(こればんだいのはなしぐさ おとにきくあさまげんとううつしえ)」という芝居を中村座で上演した。公演時には会場に田中が持ち帰った磐梯山の噴石などを陳列し、芝居の中でも田中智学から借り受けた磐梯山噴火の被災状況の幻灯が効果的に使用された。「是万代話柄 音聞浅間幻燈画」は、観客にとって記憶に新しい磐梯山噴火のイメージを巧妙に利用した芝居で、好評であったという。時事ネタを歌舞伎に仕立てて上演するのは江戸時代からの伝統であったが、そこに幻灯が視覚効果を生む新たな装置として活用されたのである。 また帝国大学から派遣されて磐梯山噴火の調査研究に従事した関谷清景も、普及啓発活動に幻灯を用いたと考えられている。国立科学博物館には、当時、お雇い外国人教授であり、優れた写真撮影の技量を持っていたW.K.Burton撮影の幻灯スライドが遺されている。関谷は磐梯山噴火について大學通俗講演会という講演会で講演をしており、その際にBurton撮影のスライドを幻灯機を用いて写し、説明をしたとの記録が残っている。 そして磐梯山の噴火後、東京や地元福島の多くの写真師が災害の写真を撮影した。磐梯山噴火以前に災害を撮影した例としては、1885年(明治18年)の大阪の洪水が挙げられるが、磐梯山噴火では単なる記録用としてではなく、報道用など営利を目的として写真が盛んに利用された日本で最も早いケースであったと考えられている。また明治20年代に入り、日本でもこれまでの湿板から、取り扱いが容易で感度が高く撮影も容易な乾板が普及し始め、写真は急速に大衆化し始めていた。つまり磐梯山噴火は写真の大衆化が始まった時期に発生しており、磐梯山噴火の災害写真は日本の写真史における転換点を示すものとなっている。
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