地震・津波の被害
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「宝永地震」および「新居宿」も参照 遠州灘では中世から江戸時代に地震津波被害を受けており、舞坂でも津波の被害があった。 元禄12年(1699年)には高潮被害により舞坂宿の対岸にある新居関所が大破され、荒井宿では、約120軒が流出した。また、元禄14年(1701年)に津波のため対岸の関所は移転している。 宝永4年(1707年)に宝永地震が起こり、地震と津波のため被害を受けた。対岸の新居宿でも家屋855軒が浸水、倒壊し、渡船は大きな被害を受けた。津波被害により、今切口の復興と今切関所の流出と移転によって、舞坂宿と荒井宿を結ぶ航路であった今切の渡しの航路が延長した。延長により渡航が不便になったため、東海道の利用を避け本坂通に回避した。 宝永地震から1年以上経過した後も、東海道に利用者はもどらず復興もままならないことから、宝永6年3月(1709年)に舞阪宿を始め、浜松・新居・白須賀・二川・吉田の6宿は、公的旅行では東海道を利用するよう嘆願書が出された。10年後の享保2年(1717年)11月になり、本坂通の通行差留となった。 舞阪宿周辺の中近世の地震被害地震年死者家屋倒壊数推定震度津波の波高出典倒壊数半壊その他明応地震 明応7年(1498年) 6~8m 慶長地震 慶長10年(1605年) 5~6m 宝永地震 宝永4年(1707年) 3~5m 安政東海地震 嘉永7年(1854年) 12,流失 8,土蔵23,寺 3 58,破損214,土蔵 9 6 5~9m 飯田(1985)、p171。
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地震・津波の被害
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中世から江戸時代に新居宿を含む浜名湖周辺では、地震・津波被害にあった。 明応地震(明応7年)では、浜名湖開口部の沈下、今切口の決壊、橋本の壊滅により今切・新居地区への移転をもたらした。宝永地震(宝永4年)では、津波による被害にて関所の移転、今切の渡しの航路の延長により東海道の往来者は本坂通へ回避するようになった。『江府京駿雑志』には、新居(荒井)の被害状況と本坂通(本坂)への回避が記録されている。 荒井ハ津波ニテ番所不残海ヘ執テ行、家ハ不及言人死太甚多、渡カゝリタル舟七艘有之内二艘ハ無事ニ上リ五艘ハ行衛不知失由、御荷物数十駄長持二棹ニ並置ノ処ニ此宰領共ニ浪ニトラル、銀座者ノ荷物并乗捨ノ駕籠共ニ波ニトラル主人ハ昼飯時ニテ支度シ無事云々、自大坂下ス足袋荷物二駄波ニトラレ宰領ハ無事、如此故ニ往来留リ本坂ヘ回ル云々 愚諸国ノ使者又ハ往来ノ士下々々失命失器者海道筋ニテ、多之 — 『江府京駿雑志』、東京大学地震研究所(1983)、67-68頁より その他にも、地震・津波の被害の記録は残されており、慶長10年(1605年)の慶長地震、嘉永7年(1854年)の安政東海地震などがある。安政2年の文書には以下のようなものがあり、 渡海あしく候故、御往来之大名方当年ハ木曾路又は本坂越ニ御道行被遊候 — (安政2年の文書)『新居町関所資料館所蔵史料』、東京大学地震研究所(1987)、1155頁。より。 安政東海地震の被害により、東海道の交通を避け本坂道(本坂越)の利用が記録されている。 新居宿周辺の中近世の地震被害地震年場所死者家屋倒壊数震度津波その他明応地震 明応7年 1498 荒居(新居) 流出約100 6 6~8m 橋本・日ヶ崎・北山で各約1000軒流出 浜名湖周辺 一万余人溺死 数千軒流失 浜名湖南部を中心に陸地30haが海になった 慶長地震 慶長10年 1605 橋本 死傷者が少なからずあり 100軒のうち流失80 6 5~6m 馬の死傷 宝永地震 宝永4年 1707 新居 溺死者24人 850のうち半壊502、流出241(戸数665のうち流出120)、 6-7 3~5m 関所跡かたなし船舶90流出、船199破損 安政東海地震 嘉永7年 1854 新居 溺死者14人 倒壊12,流失 8,土蔵23,寺 3、半壊58,破損214,土蔵 9 6 5~9m 関所が大破
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