地震・津波に対する危機管理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 04:35 UTC 版)
「平井弥之助」の記事における「地震・津波に対する危機管理」の解説
平井は次の例に見られるように、技術者としての合理性と電気事業者としての責任感に基づいて地震・津波対策の重要性を説いた。宮城県出身の平井は地震・津波の恐ろしさを実感していたからだろう。「貞観大津波(869年)は岩沼の千貫神社まで来た」と語っていたという。 新潟火力発電所の建設(1957年(昭和32年))に際し、地震による地盤の液状化を予測して深さ12メートルの超大型のケーソン基礎(鉄筋コンクリート製の大型の箱舟)を作らせて火力機器をその上に設置した。1964年(昭和39年)の新潟地震のおりには地盤の液状化が10メートルに達し、その有用性が証明された。 東北電力の女川原子力発電所の建設(1968年(昭和43年))に際して「海岸施設研究委員会」に参画し、貞観地震級の大津波に備えるために敷地を14.8メートルの高台に設けることを強く主張した。さらに引き波時に海底が露出する事態に備えて取水路を工夫させた。 2011年3月11日の東日本大震災において、13.78 m (12.78 m の波高と1 m の地盤沈下による)の津波が女川原子力発電所を襲った。しかし、それは海抜14.8メートルの敷地に設置された3基の原子炉に達することなく、3基とも11時間以内に正常に冷温停止した。放射線モニタに異常値は検出されず、女川原発附設の建物はその後3ヶ月間にわたって津波で家屋を喪失した364人の人々の避難所となった。 1年後の2012年夏、国際原子力機関(IAEA)は女川原発に調査団を派遣し、92ページの調査報告書を日本政府に提出した。その結論は、「女川原発の諸施設は「驚くほど損傷を受けていない」(the facilities of the Onagawa NPS remain “remarkably undamaged”)」(報告書15ページ)というものであった。
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