地方自治と議会民主制の廃止
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「地方自治と議会民主制の廃止」の解説
詳細は「結束協調組合議会(イタリア語版)」を参照 全体主義社会を作り上げる過程において徹底した中央政府への集権も推進され、地方政府・地方自治体にも矛先が向けられた。地方行政を統括する県知事の権限を強化する一方、コムーネ(日本における市町村)の首長を公選ではなく政府の任命制に変更する改革を行い、中央政府からの分権を大幅に剥奪した(ポデスタ制)。1928年9月、ファシスト党の諮問機関である大評議会を法制化して正式な国家機関に定め、党や国家の権限を集中させた。 議会内では既に圧倒的多数を占めるファシスト党による支配体制が確立されていたが、一党制の推進から他政党への攻撃が引き続き続けられた。野党のみならず政権に参加していた連立与党にも圧力を加え、1925年にはガスペリら人民党を与党から追放して解散を命じている。後述するザンボーニ事件後には遂に「反ファシスト主義者の下院議席剥奪を求める法律」が可決し、ファシスト党以外の政党は非合法化された。さらに行政権である政令に法的な拘束力を与え、立法権を持つ議会を無力化した。 1929年3月24日、1929年イタリア総選挙(英語版)は国家ファシスト党以外の参加が認められず、選挙区も議員定数400名の全国選挙区に統合された。大評議会が決定した400名の立候補者が公示され、国民は候補者リストを受け入れるか否かのみで意思表示を求められ、投票用紙には「Si(スィ、はい)」「No(ノ、いいえ)」の二項目だけ記された。事実上の信任投票となった翼賛選挙に対する国民の関心は高く、投票率は89.8%を記録した。賛成票98.43%・反対票1.57%で国家ファシスト党の全議席獲得が承認された(一党独裁)。1934年3月25日には1934年イタリア総選挙(英語版)が実施され、大評議会の候補者リストが再承認された。 国民の個人的意思に基づいた投票が形骸化したのと同時期に、労働組合が政府の指導下による労使協調を目指す協調組合(コラポラツィオーネ)とする改革が進められていた。ムッソリーニは協調組合の合議を新たな国民の意思決定機関とするコーポラティズム国家(協調組合主義国家)への改革を進めていった。1939年3月23日、三度目の翼賛選挙は行わず、代わりにモンテチトーリオ宮殿の代議院を産業別代表者による結束協調組合議会(イタリア語版)に再編することを決定した。新議会の初代議長にはガレアッツォ・チャーノ外務大臣の父であるコスタンツォ・チャーノ(英語版)伯爵が選ばれたが、同年の内に別の古参党員であるディーノ・グランディ議員に交代した。
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