地方ごとの対モリスコ姿勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:32 UTC 版)
「モリスコ追放」の記事における「地方ごとの対モリスコ姿勢」の解説
1609年、850万人の総人口の他におよそ325,000人のモリスコがスペインにいた。彼らはかつてのアラゴン王国領に集まっていた。そこではモリスコは人口の20%を占め、バレンシア王国では特にその傾向が強く、総人口の33%を占めていた。加えて、モリスコの人口増加は、キリスト教徒の人口増加に比べていくらか高かった。バレンシアでは、モリスコ人口は、昔からのキリスト教徒の44.7%と比較して約69.7%の成長率を持っていた。モリスコたちが田園地帯と都市の郊外貧困地区での人口を占める間、都市で暮らしていたのは金持ちとほとんどのキリスト教徒だった。 かつてのカスティーリャ王国では、状況は全く違っていた。カスティーリャは600万人の人口を持っていたが、モリスコ住民はわずかに10万人ほどだった。モリスコはほとんど大きい存在でなかったので、カスティーリャでのモリスコへの不満は、アラゴンのキリスト教住民のモリスコに対する不満より遙かに小さかった。 『イスラム教は脅威であり、打破すべきである』とする全般的な合意が事実上スペインにはあった。しかし、公式にはキリスト教徒となっているモリスコたちに対し、どのような方法でイスラム教徒か否か照会するかは不明であった。王家の参事官であるルイス・デ・アリアガ(1619年-1621年には異端審問所長官を務めた)のような一部の聖職者たちは、同化して、完全なキリスト教徒となるよう時間を与えて支援すべきとした 。この意見は、ローマの教皇庁も敏速に支持していた。モリスコの最も熱心な援護者はバレンシアとアラゴンの貴族たちで、この姿勢には彼らの利己心が含まれていた。これらの貴族は、モリスコが提供する乏しく安い労働力から最も利益を得ていたのである。 この見解に反対したのは、様々な名士と階級の人々だった。アリアガに反対する聖職者にはハイメ・ブレダが含まれていた。彼はバレンシアでの異端審問の最も著名な人物だった。ブレダは初期にフェリペ3世に対して数回の申し入れを行い、モリスコ問題を消すかさもなければ終わらせるかを進言した。彼はジェノサイドまでも勧めていた。最初、この種の嘆願は成功に結びつかなかった。1596年、フェリペ3世の財政担当者であるレルマ公フランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハス(スペイン語版)は、モリスコはイスラム教徒のバルバリア海賊と共謀していると告発した。しかし、この意見に多くの住民が固執する間、残りの人々はこの脅威はずっと以前に終わってしまったとみなした。モリスコへのどんな懲罰的措置にも反対するアラゴン議会は、たとえモリスコたちがスペインを裏切りたかったとしても、『モリスコはトルコ艦隊のために武器も軍用必要物資も所有しないし、守備も固めないし、基地も持たない』のでそのような状況にないと書いた。その時に何も起きなかったが、レルマ公はモリスコに対する自らの反感を持ち続けた。一般庶民のうち、バレンシアの小作農らはこの件に最も関心を抱いていた。彼らはモリスコを敵意のまなざしで見、彼らを経済的・社会的な競争相手とみなしていた。この不満は1520年以前、バレンシア一般大衆がバレンシア貴族だけでなくイスラム教徒のムデハル(スペイン語版)らに対しても反乱を起こしたヘルマニア反乱(英語版)の時に沸き立った。暴徒はバレンシアのモリスコを構成するイスラム教徒人口の多くを殺害し、生存者に大規模な洗礼と改宗を強いた。
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