国際協調の成果と限界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 19:50 UTC 版)
「ロスチャイルド家」の記事における「国際協調の成果と限界」の解説
18世紀後半にフランクフルトのゲットー(ユダヤ人隔離居住区)出身のマイアー・アムシェル・ロートシルトが銀行家として成功し宮廷ユダヤ人となった。彼の5人の息子がフランクフルト(長男:アムシェル)、ウィーン(二男:ザロモン)、ロンドン(三男:ネイサン)、ナポリ(四男:カール)、パリ(五男:ジェームス)の5か所に分かれて銀行業を拡大させた。二男と五男は鉄道事業へ出資をして創設に関わった。この他、一家はスペインのMZA鉄道(マドリード・サラゴサ・アリカンテ鉄道)と上部イタリア鉄道(Società per le Ferrovie dell'Alta Italia)もファイナンスした。近代化しつつあった郵便事業にも関わっていた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}記事には[要説明]ロスチャイルド家所有の建築物が多数掲示されている。その大部分は大不況 (1873年-1896年) のときに築造・再建・取得されている。もっとも、写真がないシャトー・ド・プレニーは1858年に落成し、大不況をすぎた1900年に遺贈された。 豪邸は大きな影をつくる。オスマン債務管理局をめぐり債権国同士が対立し、ロスチャイルド家の国際協調に限界を知らしめたのである。1901年にフランクフルト家とナポリ家は閉鎖した。前者の銀行は同年ディスコント・ゲゼルシャフトに吸収された。列強各国の投資が東欧で入組み、そのまま第一次世界大戦が起こった。ウィーン家はサン=ジェルマン条約により延命されたが、ドーズ案の出るころ財政が危機的となった。ウィーン家のクレディト・アンシュタルトにアングロ・オーストリアン・バンクが買収され、内側から外資を誘導し、クレディト・アンシュタルトが世界恐慌で破綻したときに独墺関税同盟を破棄させた。1934年、オーストリアで2月内乱が起こった。この動きがチェコスロバキアに飛び火した1938年、ウィーン家も閉鎖した。 ロンドン家とパリ家は現在まで残っている。両家は日露戦争のころ日本政府へ巨額を貸し付けた歴史をもつが、それでさえ普仏戦争の賠償シンジケートに比べると彼らの仕事では小さい方である。とはいえ、ロンドン家のシンジケートは関東大震災後の復興融資を通して日本経済に深く浸透した。また、両家はそれぞれイングランド銀行とフランス銀行に対して一定の影響力をもった。加えて、ロンドン家はベンジャミン・ディズレーリ内閣のときにスエズ運河買収のため400万ポンドを年利3.5%満期36年で貸しつけたり、国家事業であるケーブル・アンド・ワイヤレスの経営に助言したりした。パリ家は総合水道会社(現:ヴィヴェンディ、ヴェオリア・エンバイロメント)を設立し5000株を引受けて大株主となったり、ソシエテ・ジェネラルをつくって横須賀造船所と露清銀行へ資金を提供したり、地中海クラブを所有したりして、1961-62年にフランス国内全民間資産の6.0%を保有するに至った。パリバが7.7%、ラザードが5.5%、ユニオン・パリジェンヌが4.1%、商工信用銀行(スエズ運河会社も参照されたい)が3.7%、ヴァンデル家(Groupe Lorrain)が3.5%、フランス商業信用銀行(現:HSBCホールディングス)が2.7%、200家族のシュネーデルが2.1%、インドシナ銀行が2.0%、クレディ・デュ・ノル(現:ソシエテ・ジェネラル)が1.8%であった。縁戚のウォルムズ銀行(フランス語版、ドイツ語版)はウニベイル(現:ウニベイル・ロダムコ・ウェストフィールドの前身の一つ)を設立した。 現在はN・M・ロスチャイルド&サンズが、M&Aのアドバイスを中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用を受託するプライベート・バンキングを行っている。一方、リオ・ティントやイメリーズという大規模な工業事業も支配した。鉱産資源は19世紀末ごろから本格的に開発している。なお、イメリーズは2014年現在グループ・ブリュッセル・ランバートの支配下にある。 ロンドン家の跡継ぎであるナサニエル・フィリップ・ロスチャイルドは、ジョン・マケインやオレグ・デリパスカを人脈にもつ。
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