国立国会図書館支部上野図書館時代
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「森清 (図書館学)」の記事における「国立国会図書館支部上野図書館時代」の解説
戦後、1946年(昭和21年)に日本に帰国した森は新設予定の市川市立図書館から誘いを受けて勤務することとなるが、国府台の建設予定地がGHQに接収されてしまった(結果的に1950年まで開館されなかった)ため、1947年(昭和22年)に帝国図書館館長岡田温直々の要望を受けて、帝国図書館主事として採用される事となった。翌年に開かれた日本図書館協会評議員選挙では、「日本十進分類法」で知られた森は評議員に当選して以後10期連続当選を果たし、一時は理事をも兼務して1951年(昭和26年)刊行の『日本図書館協会六十年略譜』の執筆や「図書館の自由に関する宣言」制定取りまとめに尽力するなど、戦後の図書館界で重きを為した。 ところが、帝国図書館が国立図書館、そして国立国会図書館支部上野図書館に改まっていく過程で森の国立国会図書館における立場は微妙なものになっていった。森の人望を見込んで帝国図書館労働組合の副委員長就任を要請されてこれを引き受ける事になったことが館長であった岡田の不興を買って、国立国会図書館発足によって整理局長に転じた岡田は森を本館職員には推挙しなかったのである。更に1962年(昭和37年)に国立国会図書館分類表が定められた際には、森は作成委員に選ばれながら、内実は単なる権威付けのための要員でしかなく、分類困難な分野における整理担当に回されて実際の作成には全く関われなかったと言われている。その一方で1965年(昭和40年)、国立国会図書館目録のローマ字排列を訓令式からヘボン式に改めようとして労働組合が反対運動を起こしてこれを潰した際に森が改正を支持したとして今度は労働組合側から非難された(元々、森は戦前からのヘボン式排列論者であり、この計画に真っ先に賛同していた)。 それでも、岡田に替わって国立図書館長・初代上野図書館長を務めたのが、間宮不二雄とともに森の良き理解者であった加藤宗厚(-1957年)であったのが幸いした。1950年(昭和25年)に森は加藤の推挙で上野図書館の司書・整理部課長補佐となり、加藤の右腕として戦時中に滞っていた目録作成や図書館分類委員会委員長を兼ねた加藤の元で「日本十進分類法」改訂作業に従事した。更に1966年(昭和41年)には明治百年事業として計画された「明治期刊行図書目録」に整理部主任司書として参画、完成前の1972年(昭和47年)に退職するものの、実質上は森が編纂者であった。
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