司書として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/24 00:49 UTC 版)
1941年の太平洋戦争開戦時にサンフランシスコにいた甲斐は、翌1942年にユタ州のトパーズ収容所に送られた。1944年に知人の人類学者の尽力で収容所を出てニューヨークへ移り、コロンビア大学中央図書館にタイピストとして就職した。その後東亜図書館 (現コロンビア大学C・V・スター東アジア図書館) 日本語図書セクションで目録作成に携わり、1945年にセクション責任者となる。 東亜図書館の日本語蔵書は、角田柳作の尽力で収集されたコレクションが核となっている。甲斐は1945年に戦争が終わると同僚のP.ヤンポルスキーと共にワシントンの議会図書館へ出向き、占領軍が日本から運んだ書籍の整理に携わり、重複した資料数千冊を譲り受けてコロンビア大学の蔵書に加えた。また日本の国立国会図書館や早稲田大学図書館などからの研修生を受け入れ、彼らを支援した。彼女は日本語コレクションの充実のために精力的に働き、それはコロンビア大学だけでなく、日本研究を行っている北米の図書館員と研究者に大きな影響を与えた。1983年70歳で定年退職したときには、甲斐の功績を称えた記念プレートが東亜図書館入口に貼られ、記念の桜が植樹された。甲斐はその後も2011年に亡くなるまで東亜図書館に通い、アジアと中東研究に関する書誌的支援に関わり、種々の目録作成に精力的に取り組んだ。彼女の最後の仕事は、東亜図書館日本語コレクション構築の歴史記録編纂であった。 C・V・スター東アジア図書館の閲覧室には甲斐を記念したコーナーが設けられ、甲斐が利用したトパーズ収容所の日本語図書館の看板、甲斐に贈られた勲四等宝冠章などが展示されている。また甲斐の遺族は東亜図書館の日本語コレクションを支援する「甲斐美和基金」 (Miwa Kai Fund) を設置した。東亜図書館協会 (Council on East Asian Libraries: CEAL) 機関誌『東アジア図書館雑誌』 (Journal of East Asian Libraries) 154号 (2012) には、ドナルド・キーン、大滝則忠ら縁のあった人々からの追悼文が掲載されている。
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