国交正常化から六四天安門事件
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「米中関係」の記事における「国交正常化から六四天安門事件」の解説
1978年12月15日の第二次米中共同声明(中華人民共和国とアメリカ合衆国の外交関係樹立に関する共同コミュニケ)の合意通りに、1979年1月1日を以ってアメリカは中華民国に代わって中華人民共和国と外交関係を結ぶことになった。アメリカは上海コミュニケで示した「台湾は中国の一部である」との中国の立場を改めて確認した。中国はアメリカ人が台湾の人民との商業的・文化的・その他の非公式の交流を続けていくことを確認した。こうした台湾との実務的な非公式関係を保障するため、アメリカは国内法で『台湾関係法』を制定した。 1979年1月の鄧小平副総理のアメリカ訪問により両国のハイレベルな政治交流が始まり、1989年の春まで続けられた。以後科学的・技術的・文化的交流や貿易に関する二国間条約が次々と締結されていく。1979年初頭以降科学及び技術協力における合意に基づき、数百もの共同調査プロジェクトや協力計画を開始され、二国間の計画としては最大のものとなった。 1979年3月1日に米中両国はそれぞれの首都に大使館を正式に設置した。1979年には未解決の私的問題の多くが解決され、貿易に関する合意が締結された。1979年8月にアメリカのウォルター・モンデール副大統領は鄧小平副総理のアメリカ訪問の返礼に中国を訪問した。この訪問をきっかけに1980年9月に二国間の領事に関する慣習・海上船舶・民間航空機の定期便就航や織物の問題について協定が結ばれた。 1980年に開始されたハイレベルな交流の結果、米中の対話の話題は世界的あるいは地域的な戦略・政治・軍事・国際連合や他の多国間の国際機関による武器管理・国際的な麻薬問題にも及んだ。この時代はモスクワオリンピックをボイコットした中国はロサンゼルスオリンピックには参加し、ソ連のアフガニスタン侵攻に対してムジャヒディンを米中両国が支援したことは米中の蜜月ぶりを象徴した。 しかし、1981年に中国がアメリカの台湾への武器供与について異論を唱えると両国関係は脅威にさらされる事になる。1981年7月にアレクサンダー・ヘイグ国務長官がアメリカと台湾の非公式な関係についての中国の疑問を解決するために中国を訪問し、8ヶ月間の対話を経て1982年8月17日に第三次米中共同声明を発表した。この声明の中でアメリカは台湾への武器供与を削減していく方針を打ち出し、中国側は台湾問題を平和的に解決していく基本方針を明示した。その間の1982年5月に米中連絡事務所所長を務めた経験を持つ知中派のジョージ・H・W・ブッシュ副大統領が中国を訪問している。また、同声明に先立つ7月14日にアメリカのレーガン大統領は台湾の蔣經國総統に対して、台湾への武器供与の終了期日を定めない事などからなる六つの保証を伝達した。1983年のジョージ・シュルツ国務長官とキャスパー・ワインバーガー国防長官の中国訪問後からはそれまでソ連や他の共産圏と同じグループ分類だった対中輸出管理が見直され、1984年には中国は日本並にまでグループが格上げされ、UH-60 ブラックホークやC-130 などが輸出され始め、ジャガー戦車やNFV-1歩兵戦闘車、グラマン社とのFC-1やJ-8II、ロッキード社とのY-8Cの共同開発も行うまでになった。 1980年代には米中首脳による相互訪問が活発に行われた。1984年にアメリカのレーガン大統領と中国の趙紫陽総理が相互に訪問し、1985年7月には李先念国家主席が外遊でアメリカを訪れた。中国首脳によるこのような訪問は初めての事だった。1985年10月にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ副大統領は中国を訪問し、中国で4ヵ所目となる成都のアメリカ領事館が開かれた。 1985年から1989年にかけて両国の閣僚による交流が行われ、1989年2月にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領が中国を訪問し華を添えた。 六四天安門事件発生前まで、米中の民間レベルでの文化的・芸術的・教育的な交流も広く行われた。中国の公式な代表団が毎月アメリカを訪問した。これらの交流の多くは、六四天安門事件の鎮圧後も継続された。
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