国交樹立後から第二次世界大戦までの移民の状況とは? わかりやすく解説

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国交樹立後から第二次世界大戦までの移民の状況

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 09:36 UTC 版)

ラ・コルメナ」の記事における「国交樹立後から第二次世界大戦までの移民の状況」の解説

日本パラグアイ1919年11月17日両国間の貿易協定調印されたことにより、両国外交関係樹立された。 日本人最初に大規模な移住行ったラテンアメリカ国家ブラジルであった。しかし、ブラジル政府1934年可決され二歩制限法で日本人移民禁止することを決定し日本土地会社アスンシオン南東部3つ絞られ候補地本格的な調査開始された。しかし、1936年2月17日パラグアイでは革命勃発しそれまで、ラファエル・フランコ(英語版将軍クーデターによって親日であったエウセビオ・アジャラ(英語版大統領政権の座から追われ、自ら大統領就任し調査中止された。その後1936年4月29日に、フランコ政権新たに日本人移住対す大統領令発布日本人移住者試験的に百家族のみ入植可、首都近郊居住硬く禁止され専ら輸出作物生産従事すべし等といった旨が通達されることとなった。 とにかくも中断されていた移住調査急遽再開を見ることとなり、1936年5月初頭土地会社再調査実施された。最終的に選ばれた場所が、パラグアリ県イビチミ郡イリアルテ地方のパルミーラ耕地であった現地通称として呼ばれていた「ラ・コルメナ」(蜂の巣箱)が自らの移住としての名称として採用され、「ラ・コルメナ移住地」が誕生することとなったのである1936年6月29日7月9日、そして同23日、まずはすでに開拓経験を持つブラジルからの農業指導移住者10家族ラ・コルメナ入植した日本からは1936年8月17日第一回移住者11家族81人を皮切りに1941年9月第28回まで入植続いた移住者訓練防疫の手続き受けたために、神戸教養所で10日程度の短い訓練終えパラグアイ首都アスンシオンまで約2か月船旅ののち、アスンシオンからは蒸気機関車乗り、イビチミ駅に到着その後牛車にて20kmほどの道半日ほど揺られ、コルメナに到着した

※この「国交樹立後から第二次世界大戦までの移民の状況」の解説は、「ラ・コルメナ」の解説の一部です。
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