国人一揆の結成とは? わかりやすく解説

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国人一揆の結成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/17 03:05 UTC 版)

南九州国人一揆」の記事における「国人一揆の結成」の解説

そこで了俊は天授2年/永和2年末子今川満範薩摩大隅日向総大将として南九州派遣合わせて国人衆の氏久からの離反画策した。5月、了俊は伊集院氏渋谷氏らに満範の下向伝え協力要請した6月に満範は肥後相良前頼頼って人吉入り球磨郡平定に当たり、8月日向庄内現在の宮崎県都城市)の制圧取り掛かりながら相良前頼とともに禰寝氏肝付氏など国人衆の参陣を呼びかけ日向三俣院の高城入城した同月室町幕府から氏久と伊久の大隅薩摩守護職解任と了俊の両方守護職任命届き9月に氏久の叔父樺山資久が籠もる小山城落とし、氏久の従弟北郷義久樺山音久兄弟籠城している都之城進軍1377年天授3年/永和3年3月頃に包囲網整った。 ところが、9月になって氏久と伊久が了俊に降伏してきた。了俊は2人所領安堵約束したが、了俊・満範父子従った国人衆はこの問題対応するために10月28日薩摩大隅日向肥後4ヶ国の国人61人が三条記した一揆契上に署名した一条目は島津氏への防戦二条目は一揆所領相論調停三条目本領新たに与えられ土地への入部訴訟起こす場合一揆全体上級機関訴えることを規定した二条目と三条目は了俊の意向も受けながら自分達の談合解決すること、一条目は了俊の判断待たず自分達で防戦努めることも規定した一条目については、了俊と和解して障害なくなった氏久が国人衆討伐を図るのではないかという疑いから書かれたもので、了俊は氏久の降参について一揆が不満を覚えていることを認めながら、幕府への忠節強調して所領問題については氏久に有利な裁定下したことから了俊は一揆信頼失った。氏久も一揆方の国人への調略行いそれぞれ緊迫した関係になっていった。

※この「国人一揆の結成」の解説は、「南九州国人一揆」の解説の一部です。
「国人一揆の結成」を含む「南九州国人一揆」の記事については、「南九州国人一揆」の概要を参照ください。

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