国人一揆の結成
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そこで了俊は天授2年/永和2年、末子の今川満範を薩摩・大隅・日向の総大将として南九州に派遣、合わせて国人衆の氏久からの離反を画策した。5月、了俊は伊集院氏・渋谷氏らに満範の下向を伝え、協力を要請した。6月に満範は肥後の相良前頼を頼って人吉に入り、球磨郡の平定に当たり、8月に日向庄内(現在の宮崎県都城市)の制圧に取り掛かりながら相良前頼とともに禰寝氏・肝付氏など国人衆の参陣を呼びかけ、日向三俣院の高城に入城した。同月、室町幕府から氏久と伊久の大隅・薩摩守護職解任と了俊の両方の守護職任命も届き、9月に氏久の叔父樺山資久が籠もる小山城を落とし、氏久の従弟北郷義久・樺山音久兄弟が籠城している都之城に進軍、1377年(天授3年/永和3年)3月頃に包囲網が整った。 ところが、9月になって氏久と伊久が了俊に降伏してきた。了俊は2人に所領安堵を約束したが、了俊・満範父子に従った国人衆はこの問題に対応するために10月28日、薩摩・大隅・日向・肥後4ヶ国の国人61人が三条を記した一揆契上に署名した。一条目は島津氏への防戦、二条目は一揆の所領相論の調停、三条目は本領と新たに与えられた土地への入部で訴訟を起こす場合、一揆全体で上級機関に訴えることを規定した。 二条目と三条目は了俊の意向も受けながら自分達の談合で解決すること、一条目は了俊の判断を待たず自分達で防戦に努めることも規定した。一条目については、了俊と和解して障害のなくなった氏久が国人衆の討伐を図るのではないかという疑いから書かれたもので、了俊は氏久の降参について一揆が不満を覚えていることを認めながら、幕府への忠節を強調して所領問題については氏久に有利な裁定を下したことから了俊は一揆の信頼を失った。氏久も一揆方の国人への調略を行い、それぞれが緊迫した関係になっていった。
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