名探偵ホームズ全集
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戦後になり、山中の戦前の諸作品が多く復刊されていたものの、山中が新作を発表する機会は激減していた。 そのような中、ポプラ社が、海外の推理小説(当時の呼称は探偵小説)・冒険小説を、少年少女向けに読みやすく翻案した叢書『世界名作探偵文庫』を企画し、1953年(昭和28年)に山中にシャーロック・ホームズシリーズなどの執筆を依頼し、山中は快諾した。本叢書の執筆陣には、山中に加えて江戸川乱歩、南洋一郎らが顔を揃えていた。 『世界名作探偵文庫』は1954年(昭和29年)に刊行が開始され、第1回配本の3巻は、いずれも山中による第1巻『深夜の謎』(一般的なタイトルは『緋色の研究』、以下同じ)・第2巻『恐怖の谷』・第3巻『怪盗の宝』(『四つの署名』)であった。当初の『世界名作探偵文庫』の企画では、同叢書に収録するシャーロック・ホームズシリーズはこの3点のみとする予定であり、同じく山中が執筆した第4巻『魔人博士』(サックス・ローマー著)と第5巻『灰色の怪人』(バロネス・オルツィ著)の2冊が続けて刊行された。 しかし、ホームズもの3冊が圧倒的な売れ行きを示したため、ポプラ社は山中の執筆によるホームズものを『名探偵ホームズ全集』として独立させ、全20巻の叢書として完結させることに方針を変更した。ポプラ社の担当編集者の後年の回想によると、自らが丹精を込めて翻案したホームズものがベストセラーになったことについて、戦後に髀肉の嘆をかこっていた山中の喜びは大きく、「ホームズもの全部を訳させて欲しいと言ってきた」という。各巻は原稿用紙300枚近かったが、山中は毎月一冊のペースで書き進め、『名探偵ホームズ全集』(全20巻)は1956年(昭和31年)末までに完結し、2年間で100万部近くの部数に達した。 山中は各巻の冒頭に載せた序文において、シャーロックホームズ・シリーズの翻案の趣旨を、読者たる少年少女に分かりやすい言葉で述べている。第1巻『深夜の謎』の序文から引用する。 ところが、なにしろ英国の作家だから、その小説には、当然に、英国人の古い習わし、風俗、わからないことばなどが、多分にふくまれていて、上手な訳文でも、日本のことに少年少女にはぴったりしない点、たいくつするところがすくなくない。そこで、この本は、『緋色の研究』を翻案して、日本の少年少女に、もっともおもしろいように、すっかり、書きなおしたのである。 — 山中峯太郎、 シャーロキアンである(日本シャーロック・ホームズ・クラブ会員、ベイカー・ストリート・イレギュラーズ会員)平山雄一は、山中の『名探偵ホームズ全集』を下記のように評している。 コナン・ドイルが執筆したシャーロックホームズシリーズの記述には、前後の辻褄が合わない、現実にはありえない描写など、多くの矛盾が存在する(「シャーロキアン#研究ごっこ」を参照)。 山中はそうした矛盾にいち早く気づき、さまざまな修正や加筆を行って矛盾を解消し、物語としての完成度を高めている。 『名探偵ホームズ全集』を注意深く読むと、各国のシャーロキアンが難解な論文で述べていることに既に山中が気づいていた例、さらには、今までにどのシャーロキアンも気づかなかった矛盾点が山中によって見いだされている例が多く見つかり、山中の独自性・先進性に驚かされる。 陸軍中央幼年学校本科卒業時に恩賜の銀時計を拝受し、陸士19期の先頭で陸大入校を果たした、当時の秀才を選りすぐった陸軍将校の中でも、とりわけ頭脳明晰で知られていた山中ならではの業績であり、山中は日本で最初の「シャーロキアン研究家」といえよう。 平山は、山中が自ら説明している「日本の少年少女がより楽しめるようにするための翻案」に成功して好評を博し、それに加えて独自にシャーロックホームズ・シリーズを高いレベルで研究し、その成果を『名探偵ホームズ全集』に反映したのだと指摘している。
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