各巻の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 03:58 UTC 版)
石山寺縁起絵巻 第6巻第26段。中原親能が山城国和束に隠れる謀反人を追討する際、まず石山寺に参詣してその成功を祈願した。その加護によって親能は勝利を収め、炎の中まさに謀反人を斬首する場面。 燃え上がる炎は『平家物語絵詞』三条殿夜討巻(ボストン美術館蔵)、斬首する様子は『平家物語絵詞』信西巻(静嘉堂文庫蔵)を参考にしていると考えられる。 石山寺縁起絵巻 第7巻第31段。母を助けるため身売りした娘が嵐に遭うも、一心に石山観音を念じると、白馬が現れ娘を水際まで引き上げる場面。背景には人買いたちの断末魔の様子が見える。その後、娘は結婚して母を養い、裕福で幸せな人生を送った。 石山寺縁起絵巻は、その完成に至るまで非常に複雑な経緯をたどっている。かつては、最初は全7巻が完備されていたが、のちに失われていった巻を随時補巻していったと見られていた。しかし、当時の記録類から、当初全7巻の詞書の原文と、第1~3巻までの絵しか完成していなかったと推測される。そして、40年ほど経って洞院公賢の子で石山寺座主・杲守が、既に複数存在していた詞書を校合し、さらに絵巻物に相応しく和文化した詞書を付して、現在の第1~3巻を完成させ、その後はその詞書を元に絵が追加されたとするのが通説になっている。 第5巻は、詞書は御子左家の冷泉為重。絵の作者は不明だが、人物描写の共通性などから『融通念仏縁起絵巻』(清凉寺蔵)や『親鸞聖人絵伝』(石川県・願成寺蔵)、「誉田宗廟縁起絵巻」(誉田八幡宮蔵)を制作した粟田口隆光の筆とする説が有力である。 第4巻は、詞書は三条西実隆。絵は、寺の言い伝えや江戸期の鑑定では土佐光信とされるが、絵の描き方が光信よりも伝統的な大和絵に近く、人物の容貌表現も光信は面長、絵巻の絵師は丸顔と大きく異なる。また、伝光信作品の中には、「鶴草紙」(京都国立博物館蔵)、「狐草紙」(個人蔵)、「白描平家物語絵巻」(京都国立博物館ほか蔵)など、本絵巻と同一筆者と見なせる作品群が伝存する。そのため、光信とは異なるが一家を構えて、当時一流の文人貴族だった実隆と合作できるほど名声があった、おそらく光信より年長の土佐派の有力絵師の手になると推測される。絵師の候補として分家筋に当たる土佐行定が挙げられが、行定には確実な基準作がなく、推測の域を出ない。 巻6,7巻は、詞書は飛鳥井雅章。絵は、谷文晁が2年がかりで完成させた。この両巻制作の背景には、好古家の側面もあった松平定信と、当時の石山寺座主で江戸中興の祖ともいうべき尊賢と好古を通じた交流がある。定信は文晁に、「一草一木たりとも文晁が私意を禁ぜられ」たといい、新図は定信自ら指導し、図様に関しては古い絵巻などから抜き出して使用している。
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