南関御茶屋跡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 南関御茶屋跡の意味・解説 

豊前街道
南関御茶屋跡
腹切坂

名称: 豊前街道
 南関御茶屋跡
 腹切坂
ふりがな ぶぜんかいどうなんかんおちゃやあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 熊本県
市区町村 玉名郡南関町
管理団体
指定年月日 2003.08.27(平成15.08.27)
指定基準 史6
特別指定年月日
追加指定年月日 平成17.03.02
解説文: 南関御茶屋跡は、熊本県北部福岡県接す南関町中心部所在する豊前街道沿いの藩主等の休憩宿泊施設跡である。
  南関町は、古代には官道通り大水駅が置かれ併せて国境警備のための関が設けられていたとされる場所であり、交通の要衝として発展した地域である。関所は、その後機能し現在の地名通じる「ミナミノセキ」という地名定着したとされる近世においても道は、豊前街道として利用されており、特に江戸時代後半参勤交代道として利用されることが多くなった。 
  南関は、肥後藩主等の参勤交代の際に利用され肥後国内における最終休憩宿泊地点であり、そのための施設として御茶屋設置されることになったのである寛永17年(1640)の記録では、御茶屋建替工事長期わたっていることが見えることから、江戸初期から施設整備が行われていたことがわかる。
  現在の御茶屋跡の建物は、嘉永3年(1850)に起工して、同5年竣工したもので、『南関御茶屋新規建て方見積り』(瀬上文書)によると、改修理由それまで建物古く、狭いもので、間取りが悪いものであったためとしている。建替工事携わった人々工事内容、各々からの出夫の人数などは『町在』(永青文庫)や『木下助之日記』(木下文庫)によって把握できる
  現在残っている建物は、南北長い造りで、北から御居間御次の間三の間配されている。御居間改修玄関棟欠損はあるが、建物全体としては往時御茶屋の姿をよく残しているものである屋根には、細川家九曜紋あしらった鬼瓦軒瓦葺かれ建物北側小規模な庭園造られている。
  この御茶屋は、御客屋とも呼ばれ資料には両方とも記載されているが、一般的には御茶屋通称されていたもの考えられている。
  このように近世街道沿いの御茶屋跡が現存し往時建物構造残していることは、我が国近世の交通史を考え上で貴重で、現在整備進められている豊前街道と一体的保存すべき物件であり、建物保存の緊急性から先行して史跡指定行い保護図ろうとするものである
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  谷戸城跡  谷重遠墓  豊前国分寺跡  豊前街道  豊後国分寺跡  貝殻山貝塚  賀茂別雷神社境内

豊前街道南関御茶屋跡

(南関御茶屋跡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/12 09:14 UTC 版)

南関御茶屋跡

豊前街道南関御茶屋跡(ぶぜんかいどうなんかんおちゃやあと)とは、熊本県玉名郡南関町にある指定の史跡である。本項では御茶屋跡と称する。

この御茶屋跡は、1852年嘉永5年)正月頃に完成したもので、参勤交代時に藩主の休憩所、宿泊所として用いられた建物である[1]2003年(平成15年)8月、腹切坂とともに国の史跡に指定され保存修理により、2004年(平成16年)度に修理が完了。2005年(平成17年)5月13日オープンした。修理金およそ1億1400万円

沿革

南関は、古代には官道が通り、大水駅が置かれ、国境警備のための関が設けられたとされる地であり、古来、交通の要衝として発展した。関所はその後も機能し、現在の地名に通じる「みなみのせき」が定着したといわれている。道路は、近世においても豊前街道として利用され、江戸時代には参勤交代の道としてもおおいに利用された。参勤交代に際しては肥後国内における最後の休憩地、宿泊地であり、そのため、藩主はじめ藩士のための御茶屋が設置された。寛永17年(1640年)の記録では、御茶屋の建替工事が長期にわたっていることが記されるところから、江戸時代初期から施設の整備がなされていたことがわかる。

現在の建物は、嘉永3年(1850年)に起工し、嘉永5年に竣工したもので、『瀬上文書』「南関御茶屋新規建て方見積り」によれば、改修理由は従来の建物が古くなり、また、狭く、間取りも悪かったためとされる。『永青文庫』「町在」および『木下文庫』「木下助之日記」により、建替工事に携わった人々の概要や工事の中身、また、各村々から拠出した人夫の数などがうかがい知れる。なお、鹿児島から江戸に渡る途中の篤姫も訪れ、休息をとっている。

明治時代以降は、民家旅館などとして利用されていたといわれる。1932年昭和7年)には北原白秋の歓迎会が行われている。昭和の後半より老朽化が顕著となり、多くの人々から忘れられた存在であった。

遺構概要および史跡指定

遺構の概要

現存の建物は、南北に長い造りで、北から御居間、御次の間、三の間と配される。御居間の改修、また玄関棟の欠損はあるものの、建物全体としては当時の御茶屋の姿が良好に遺存している。屋根には、藩主細川氏九曜紋をあしらった鬼瓦や軒瓦が葺かれており、建物北には小規模な庭園も造られている。柱も多くは当時のままである。

御茶屋は、「御客屋」とも呼ばれ、文献資料には両様に記載されるが、一般的には「御茶屋」と呼称されていたものと考えられる。誤解されやすいが、決してを販売していたわけではなく、武士のための宿泊、休憩施設であった。

史跡指定

近世の街道沿いの御茶屋跡が現存し、当時の建物構造を残していることは、交通史上貴重であり、平成15年(2003年)、整備が進められている豊前街道と一体的に保存すべき物件として、建物の保存の緊急性によって、街道整備に先んじて国の史跡に指定された。現在も遺構の約7割が嘉永年間のものを受け継いでいる。

保存事業における出資比

ボランティアガイド

南関町宿場町伝楽人というボランティア団体が管理している。常に40名前後のボランティアガイドが在籍し、当番制で出勤している。

所在地

  • 熊本県玉名郡南関町大字関町1141-2
  • 中央公民館裏階段上、旧南関第一保育園横

交通アクセス

イベント

御茶屋跡が整備されてから、民家などで開催されていたイベントがここで行われるようになった。

  • 北原白秋生誕祭 in 母の里なんかん
  • バラ展
  • 菊花展
  • 観月会
  • 七夕まつり
  • ふるさと関所まつり『御茶屋跡の陣』

脚注

  1. ^ 史跡豊前街道南関御茶屋跡”. 南関町. 2021年1月14日閲覧。

関連項目

外部リンク

座標: 北緯33度3分44.1秒 東経130度32分29.8秒 / 北緯33.062250度 東経130.541611度 / 33.062250; 130.541611



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「南関御茶屋跡」の関連用語

南関御茶屋跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



南関御茶屋跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2025 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの豊前街道南関御茶屋跡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS