労働党の指導者
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「ジョージ・ランズベリー」の記事における「労働党の指導者」の解説
2年後、内閣は退陣を余儀なくされる。マクドナルドはイギリス挙国一致政府をつくるため、労働党との関係を断ち切り、党は1931年の総選挙で敗北した。党の新しいリーダー、アーサー・ヘンダーソンとその脇を固める幹部はみな敗北を喫した。ランズベリーが唯一の例外で、彼が1931年に議会労働党の議長になった。それに続く数年の間にヘンダーソンは党を巡るいたるところで影響力を失い、ランズベリーがその後継者になった。 1933年6月のフルハム東地区の選挙で、ナチス・ドイツの再武装とそれに引き続き起きた国際連盟からの脱退が、選挙の争点となった。ランズベリーは、長くキリスト教的平和主義者でもあったので、党首としての立場で有権者たちに次のようなメッセージを送った。 「私はすべての新兵募集所を閉鎖し、イギリス陸軍を解散し、イギリス空軍をなくしてしまいたいと思う。私は戦争のまつわるすべての忌まわしいものを消し去ってしまいたいのです。そして、世界に向かって、「汝、忌まわしきものよ」と叫びたいのです。」 平和主義者としてのランズベリーは、自分が率いている党の外交政策と次第に違和感を抱き、機会あるごとに党首の辞任を申し出るが、議会の同僚たちはそれを説得して思いとどまらせた。これは他に指導者の器となる人物がいなかったためだけではない。しかし、1935年にはその不一致はますます深刻で、しかも公然のものとなる。労働党内の多くの人々、特にアーネスト・ベヴィンに率いられた労働組合派は、アビシニアを攻撃したイタリアに対する制裁措置に賛同するよう党に迫った。ランズベリーは基本的にはこれに不賛成であった。労働党の党大会までの数週間の間に、ランズベリーの地位はかなりの弱体化に陥った。ここにいたって、貴族院の労働党指導者であったアーサー・ポンソンビーと、各方面からランズベリーの政治的後継者と目されていた労働党の論客で重要人物の一人でもあったスタフォード・クリップスの2人が、彼らも制裁に反対だったのだが、自分たちがその日の主要な政治課題に不賛成の立場を採ったら党を指導していくのはもはや困難になるだろう、ということでその職を辞した。 ランズベリーはいまだ党内では絶大な人気を博していたとはいえ、人は彼の指導力がどうやって持ちこたえられるかと懸念した。党大会では議員たちが壇上に並んだ。外交政策についての議論の中で、アーネスト・ベビンがランズベリーに攻撃を仕掛けた。投票で惨敗し、ランズベリーは党主の座を降りる決心をした。その直後に招集された労働党の下院議員の集まりで、彼の退陣は不承不承ながら受け入れられた。一部には継続して支持するという議員もいた。というのも多くの議員は、ランズベリー退陣となると次の党首が、ベビン同様労働組合派に強く傾斜しているアーサー・グリーンウッドになると予想したためである。下院議員の間での投票では、38対7でランズベリーの辞意は不承認となった。しかし、ランズベリーが辞職に固執した。事ここにいたって(当初は一時的なポストと考えられたが)後継者を選ばなくてはならないことになり、グリーンウッドの名は挙がらず、党は満場一致でクレメント・アトリーを選出した。ランズベリーは、ノーモア・ウォー運動(the No More War Movement)の議長を務めた。1936年から1940年まで国際反戦運動(the War Resisters' International)の議長、1937年から1940年には平和誓約ユニオン(Peace Pledge Union)の会長も務めた。 ランズベリーは、イギリスのスペイン内戦に対する政治姿勢を批判し、スペインの平和主義者ホセ・ブロッカとも手をつないで活動した。第二次世界大戦を食い止めようと彼は、国際的な調停のための大使として、アドルフ・ヒトラー、ベニート・ムッソリーニなどヨーロッパの主要な政治指導者のもとを回った。アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトのもとも訪問している。 ランズベリーは1940年5月7日に北ロンドンのマナーハウス病院において、がんで亡くなった。81歳だった。
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