創生伝承
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ウイグルの創生については、モンゴル帝国時代のペルシア語文献においていくつかの物語が記されている。アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(1260年編纂)とラシードゥッディーン『集史』(1314年編纂完成)がある。 特に後者の『集史』ではテュルク・モンゴル系の諸部族をイスラーム的世界観の枠内で分類しており、これらを大洪水後に現在の人類の遠祖となったノア(ヌーフ)の3人の息子セム、ハム、ヤフェトのうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫としている。 テュルク系種族をヤフェトの子孫とするのは『集史』以外にも見られるが、『集史』はこれにオグズ・カガン伝説も絡めて述べているのが特徴であり、後世にもこの傾向は受け継がれた。 ラシードゥッディーン『集史』ウイグル部族誌 (1314) 伝承:「ノアの子のアブルチャ・カン即ちヤフェトの子のディブ・バクイの子のカラ・カンの子のオグズ( اوغوز پسر قرا خان پسز ديب باقوى پسر يافِث پسر نوح عليه السّلام Ūghūz pisar-i Qarā-Khān pisar-i Dīp Bāqūy pisar-i Abūlja Khān Yāfith pisar-i Nūḥ `alaihi al-salam.)は、唯一神(アッラー)のみを信じたので、叔父達や兄弟から攻撃を受けたが、彼はその親族の一部の援助を受けて打ち破り彼等の領地を併合した。 彼は大会を開き、親族・異姓の集団・戦士達を鎮撫し、共に戦った親族の人々に“ウイグル”の名を授けた」 古代:「ウイグリスターン地方 (wilāyat-i Ūyghūristān) には2つの非常に大きな山があり、ひとつはブクラト・ブズルク( بوقراتو بوزلوق Būqrātū-būzlūq)、もうひとつはウシュクンルク・タンクリム( اوشقون لوق تنكريم Ūšqūn-lūq-tankrīm)であった。そのふたつの間にはカラコルム山 (kūh-i Qarāqūrum) が鎮座し、カアン(Qā'ān; オゴデイのこと)が建てられた都市はその山の名前にちなんで呼ばれている。その山のそばにクト・タク( قوت طاق Qūt-ṭāq)と呼ばれている山がある。 その山々の一帯には10本の河(が流れている)場所と、9本の河(が流れている)場所がある。古い時代には、ウイグル諸部族の居住地は、これらの諸河川や山々や荒野 (ṣuḥrā-hā) にあった。 この10本の河にすむものたちがおり彼らはオン・ウイグル( اون اويغور Ūn Ūyghūr)と呼ばれ、9本の河にいるものはトグズ・ウイグル( توغوز اوغوز Tūghūz Ūyghūr)と呼ばれている。この10本の河はオン・ウルグン( اون اُرغون Ūn-Urghūn)と呼ばれている。 それらの名前を以下に説明すると、اييشلك Aīīšlik(部族),اوتنكر Ūtinkar?(部族), بوقيز Būqīz(部族),اوزقندر Ūzqundur(部族),تولار Tūlār部,تاردار Tārdār(部族),ادر Adar(部族:もしくは ادر اوج Adar-Ūjか),اوج تابين Ūj-Tābīn(部族:もしくは تابين Tābīnか), قملانجو Qamlānjū(部族),اوتيكان Ūtīkān(部族)である。3本の河畔に9部が、次の4本の河畔に5部がいる。9本目の Qamlānjū の河沿いには オン部族( قوم اونك qawm-i Ūnk:もしくは قوم لونك qawm-i Lūnkか)、10本目の河畔に قمق آتی كوز Qamaq-ātī-kūz 部がある。その他名称不詳の部を含め122部がそれらの河に有った。数世代経ったがウイグル諸部族には決まった君長(pādshāhī wa sar-varī)が居らず、各部が武力争奪を始めると別の集団から長を立てていた。 後に各部が共同利益の為に会議を開き、全体に命令を発する1人の全権君主(pādshāhī muṭalliq-i amr ki bar hamganān nāfidh farmān bāshad)を自分達の中から出すことを決議。全会一致で満場の意を受けて、アビシュリク( ابيشلك Abīšlik)部から最も聡明なマングダイ( منكوتای Mankūtāī /ないしマング・バイ منكوباى Mankū-bāī)を選出、イル・イルテベル( ايل ايلتبر Īl-Īltabar)の称号を授けた。また、ウズクンドゥル(اوزقندر Ūzqundur)部から品質性格の良好な人物を選んでキョル・イルキン( كول ايركين Kūl-Īrkīn)の称号を授けた。彼等二人は全民族と諸部族の君主(pādshāh-i jumhūr wa aqwām)となり、彼等の一族(ūrūgh/uruq)が100年間統治した。」 アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー『世界征服者の歴史』(1260) 「カラコルムから発するトグラ河とセレンガ川が合流するカムランジュ( قملانجو Qamlānjū)に双樹があった。双樹の間の丘に天から光が降り注ぎ、日ごと丘は大きくなった。やがて丘陵が開き、天幕張りの5つの部屋が現れると各々に一人の子供が座っていた。5人の子供はこの土地の人々から王子と同じように尊敬され、長男はソンクル・テギン( سنقر تكين Sunqur Takīn/Sonqur Tegin)、次男はクトル・テギン( قوتر تكين Qūtur Takīn/Qotur Tegin)、三男はブカク・テギン( توكاك تكين Tūkāk Takīn/Tükel Tegin)、四男はオル・テギン( اور تكين Ūr Takīn/Or Tegin)、五男はブク・テギン( بوقو تكين Būqū Takīn/Buqu Tegin)と命名された。ウイグル人は彼らが天より降臨したものと信じ、彼らの一人を君主に戴くことにした。そこで、末子のブク・テギンが美貌と才智に最も秀で、あらゆる言語と文字に通じていたので、ウイグル人は彼を推戴してカン( خان Khān)とし、大祭を催して玉座に就かせた」
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