創生期から1930年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 07:04 UTC 版)
「チェコの映画」の記事における「創生期から1930年代」の解説
チェコの映画は、オーストリア=ハンガリー帝国の時代、19世紀末にその歴史が始まった。建築家でアマチュア・カメラマンだったヤン・クジージェネツキーが、パリで購入した映写機のシネマトグラフ・リュミエールを用いて、1898年にプラハで撮影・上映した作品がチェコ映画史上における最初の映画だった。20世紀にはいると、奇術師のヴィクトル・ポンレポが1907年にプラハで最初の映画館を開業して、1913年にヨゼフ・シュヴァープ=マロストランスキーが『人間の五感』(1913年)、マックス・ウルバンがチェコ最初の花形女優であるアンナ・セドラーチコヴァーを主演に据えて『恋の終わり』(1913年)を製作する。その後、第一次世界大戦下の1910年代半ばから、大戦終結後、チェコスロバキア第一共和国が成立したのちの1920年代までは、チェコスロバキア映画の不毛の時代で目立った作品もなく、社会的なテーマのメロドラマがほとんどであった。 1930年代にはいり、トーキーの広がりとともに、映画産業が徐々に活気づいてゆく。のちのチェコ共和国初代大統領ヴァーツラフ・ハヴェルの伯父であるミロシュ・ハヴェルによって、ヨーロッパ最大の映画スタジオとなるバランドフ撮影所が1933年に完成する。映画は、女優ヘディ・キースラーの全裸シーンが話題を呼んだグスタフ・マハティの『春の調べ』(1933年)が、国内のみならず国外にもひろく輸出されて各地で大ヒットをおさめ、チェコスロバキア映画を一躍世界に知らしめた。また、このマハティの成功により、スヴァトプルク・インネマンの『修学旅行』(1932年)やヨゼフ・ロヴェンスキーの『ながれ』(1934年)が国外にも紹介された。フランスの映画批評家ジョルジュ・サドゥールは、第二次世界大戦以前のこれらのチェコスロバキア映画の特徴を、「撮影の美しさ、トーンの正確さ、大胆さを排除しない真摯な態度、自然と民間伝承的な農民あるいは都会の庶民生活へのリアルな感覚」であると考察した。 一方で、1930年代はあたらしい芸術形式としてアバンギャルド映画が発展をとげた時代でもあり、映画とほかの芸術を組み合わせた実験的な映画製作や映画批評がさかんに行われた。とくに、アバンギャルド映画『目的のない散歩』(1930年)や『プラハ城』(1931年)を製作したアレクサンデル・ハッケンシュミットは、のちにアメリカ合衆国へ亡命して前衛映画作家のマヤ・デレンと出会い、1940年代後半のアメリカ合衆国のアンダーグラウンド映画にもおおきな影響を及ぼした。
※この「創生期から1930年代」の解説は、「チェコの映画」の解説の一部です。
「創生期から1930年代」を含む「チェコの映画」の記事については、「チェコの映画」の概要を参照ください。
- 創生期から1930年代のページへのリンク