判決の反響とは? わかりやすく解説

判決の反響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 05:30 UTC 版)

大本事件」の記事における「判決の反響」の解説

そのころ全国新聞は一県一紙統合され掲載記事への検閲強化されていた。第二審判決は、検挙報道した大阪毎日新聞」において三段見出し31行、「大阪朝日新聞」は二段見出し38行、「東京日日新聞」は一段見出し19行という記事であった記事見出しは「元大本教王仁懲役五年―不敬事実対し判決」・「大本教判決不敬罪処断」というもので、治安維持法違反事件無罪については積極的に報道しなかった。逆に国民新聞」は『検事局が……被告等の行為治安維持法抵触するのであるとなす主張こそは、正しくわれ等日本国民たるものの通念感情とに合致するのである……国体擁護に不覇の決意示した検事上告満腔敬意表さずには居られない』(昭和17・8・6「散兵壕」)と論評している。 8月7日米軍ガダルカナル島フロリダ諸島ツラギ島)に上陸ガダルカナル島の戦い始まった同日王仁三郎澄夫妻、出口宇知麿の3人は保釈され京都府亀岡長女出口直日宅に戻った王仁三郎拘留期間は2435日だった。澄の場合京都五条警察所に1936年昭和11年3月14日から拘束され同年7月2日京都府中央区刑務支所移送、そこから大阪北区刑務支所をへて1942年昭和17年8月7日まで拘束されていた。 その後大本の9人は不敬罪有罪を、検察治安維持法無罪について上告したため、裁判大審院まで持ち込まれた。ところが東京大空襲関係記録多く焼失加えて太平洋戦争敗北により日本アメリカ軍占領下におかれた。1945年昭和20年9月8日検察被告双方控訴棄却して原審確定大審院検事局平野利は『十年星霜経た複雑怪奇難件も一応落着したと雖も大本教一党動静再起懸念するものもあり』と棄却2日後回顧している。迫軍二(捜査責任者)も回顧録で『事件発端は、純然たる法治国の要請基づいたもの』として大本異質さと、その行動宗教神話元にした大規模反体制運動であったことを指摘し、『いずれの国家問わず現実にみずからの行く手立ちふさがるこの種の危険に対しては、何等かの対応の措置必須』と事件正当性主張している。10月17日敗戦による大赦令で不敬罪解消となった1947年昭和22年10月刑法改正され不敬罪消滅した綾部亀岡両町接収され土地返還民事訴訟戦争中から大本有利に進んでいたが、判決延期されているうちに敗戦となり、10月 - 11月にかけて返還された。

※この「判決の反響」の解説は、「大本事件」の解説の一部です。
「判決の反響」を含む「大本事件」の記事については、「大本事件」の概要を参照ください。

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