判決の反響
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そのころ全国の新聞は一県一紙に統合され、掲載記事への検閲も強化されていた。第二審の判決は、検挙を報道した「大阪毎日新聞」において三段見出しの31行、「大阪朝日新聞」は二段見出しの38行、「東京日日新聞」は一段見出しの19行という記事量であった。記事の見出しは「元大本教祖王仁に懲役五年―不敬事実に対し判決」・「大本教の判決―不敬罪で処断」というもので、治安維持法違反事件の無罪については積極的に報道しなかった。逆に「国民新聞」は『検事局が……被告等の行為は治安維持法に抵触するものであるとなす主張こそは、正しくわれ等日本国民たるものの通念と感情とに合致するものである……国体擁護に不覇の決意を示した検事上告に満腔の敬意を表さずには居られない』(昭和17・8・6「散兵壕」)と論評している。 8月7日、米軍はガダルカナル島とフロリダ諸島(ツラギ島)に上陸、ガダルカナル島の戦いが始まった。同日、王仁三郎・澄夫妻、出口宇知麿の3人は保釈され、京都府亀岡の長女・出口直日宅に戻った。王仁三郎の拘留期間は2435日だった。澄の場合、京都五条警察所に1936年(昭和11年)3月14日から拘束され、同年7月2日京都府中央区刑務支所に移送、そこから大阪北区刑務支所をへて1942年(昭和17年)8月7日まで拘束されていた。 その後、大本の9人は不敬罪有罪を、検察は治安維持法無罪について上告したため、裁判は大審院まで持ち込まれた。ところが東京大空襲で関係記録の多くが焼失、加えて太平洋戦争の敗北により日本はアメリカ軍の占領下におかれた。1945年(昭和20年)9月8日に検察・被告双方の控訴を棄却して原審確定、大審院検事局の平野利は『十年の星霜を経たる複雑怪奇の難件も一応落着したりと雖も旧大本教の一党の動静は再起を懸念するものもあり』と棄却2日後に回顧している。杭迫軍二(捜査責任者)も回顧録で『事件の発端は、純然たる法治国の要請に基づいたもの』として大本の異質さと、その行動が宗教神話を元にした大規模反体制運動であったことを指摘し、『いずれの国家を問わず、現実にみずからの行く手に立ちふさがるこの種の危険に対しては、何等かの対応の措置は必須』と事件の正当性を主張している。10月17日、敗戦による大赦令で不敬罪は解消となった。1947年(昭和22年)10月、刑法が改正され、不敬罪は消滅した。綾部・亀岡の両町に接収された土地返還民事訴訟は戦争中から大本有利に進んでいたが、判決が延期されているうちに敗戦となり、10月 - 11月にかけて返還された。
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