初演の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 18:54 UTC 版)
「トリスタンとイゾルデ (楽劇)」の記事における「初演の経緯」の解説
「作曲の経緯」で述べたように、「小ぶりの作品」のつもりが結果的に到底手軽に演じられるものではなくなったため、『トリスタンとイゾルデ』の上演機会はなかなか訪れなかった。1860年、ワーグナーは『タンホイザー』のパリ初演のためにフランスに滞在し、このとき『トリスタンとイゾルデ』上演の感触を探ろうとして、パリの演奏会で第1幕への前奏曲を取り上げた。しかし、この計画は失敗する。例えば、エクトル・ベルリオーズは前奏曲について、次のように述べた。「この作曲家がこれで何をしようとしていたのか、いまだにほんの少しでさえもわからないということを、私は告白せねばなりません」。ちなみに、同年初夏にはワーグナー信奉者であったヨーゼフ・シュトラウスもウィーンで『トリスタンとイゾルデ』の一部を演奏している。 翌1861年、ワーグナーはバーデン大公国のフリードリヒ1世に謁見して上演の可能性を打診した。バーデン公国の首都カールスルーエの劇場は、ワーグナーのドレスデン時代から旧知の間柄であるエドゥアルト・ドゥヴリアン(俳優・演出家。デフリーントとも)が支配人をしていたからである。しかし、カールスルーエには主役を演じる歌手がおらず、ワーグナーは歌手を探すためにウィーンに向かう。 ウィーンでは歌手は見つかったものの、ウィーン以外に歌手を出すことを劇場が渋ったため、今度はウィーンでの上演をめざすこととなり、ワーグナーはいったんウィーンに居を構えた。ところが、その後もトリスタン役の歌手が自信喪失したり、イゾルデ役に人間関係のトラブルが発生、ワーグナー自身も持ち前の浪費癖から借金を重ねてウィーンにいられなくなり、計77回ものリハーサルを重ねながら、上演は無期延期となってしまう。 しかし、1864年5月、バイエルン王国のルートヴィヒ2世との出会いによって、ワーグナーに援助の手が差し伸べられ、ミュンヘンでの上演計画が前進する。なお、このときも当初は1865年5月15日を初演予定日としながら、イゾルデ役のマルヴィーネの声が出なくなったために延期となり、一ヶ月後の6月10日にようやく初演が実現した。全曲完成から6年後のことである。 ミュンヘン初演では3回の上演が行われ、評判は上々だった。ただし、バイエルン王がワーグナーに莫大な資金を提供したことを快く思わない地元の新聞は酷評した。また、初演を指揮したハンス・フォン・ビューローの妻でフランツ・リストの娘コジマはワーグナーとこのころすでに実質的に夫婦の関係となっており、初演に先立つ4月には、ワーグナーとコジマの最初の子供、イゾルデが生まれていた。 のちにワーグナーの名声が高まるとともに、『トリスタンとイゾルデ』の評判も各地に伝わり、1876年にベルリン、1882年ロンドン、1883年ウィーン、1886年ニューヨークと世界の主要都市で上演され、いずれも大成功を収めた。バイロイト音楽祭において『トリスタンとイゾルデ』が初めて上演されたのは1886年、ワーグナーが没して3年後のことである。 日本初演は1963年10月で、日生劇場のこけら落としに招聘されたベルリン・ドイツ・オペラによる。指揮はロリン・マゼール、演出と装置はヴィーラント・ワーグナー。
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