作曲及び初演の経緯
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「ローエングリン」の記事における「作曲及び初演の経緯」の解説
ワーグナーの自伝『わが生涯』によれば、1839年から1842年にかけてワーグナーはパリに滞在し、クリスティアン・ルーカス(Ch. Th. L. Lucas)の編集した、1838年出版の『ヴァルトブルクの歌合戦』(Wartburgkrieg)に触れて歌劇『タンホイザー』の着想を得る。このとき、論文の続きにローエングリンにまつわる叙事詩についての説明があり、これを読んだことが発端とされる。 1843年、ヨハン・ヴィルヘルム・ヴォルフが編纂した『オランダ伝説集』が出版される。このなかにコンラート・フォン・ヴュルツブルクによる『白鳥の騎士』が含まれており、ワーグナーはこれを読んだと考えられている。また、ルートヴィヒ・ベヒシュタインのメルヘン集に「白鳥にされた子供たちの物語」があり、このモチーフもワーグナーは利用することになる。 1845年6月、マリーエンバートに温泉治療のために滞在中、ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの叙事詩『パルチヴァール』やアルブレヒトの『新ティトゥレル』の翻訳・再話、作者不明の叙事詩『ローエングリン』に付せられたヨーゼフ・ゲレスの長大な序文(100頁近い「論文」)などを読んで、歌劇の構想を固める。同時に、これらの知識は後の楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』や『パルジファル』の基盤ともなった。また、ヤーコプ・グリム『慣習法令集』や同『ドイツ伝説集』から、オルトルート像を創造したとされる。 1845年8月、台本の散文スケッチ完成。このときのスケッチには、第3幕でゴットフリートの姿に戻る白鳥の歌も書かれていたが、後にこれは取り消される。 1845年11月、前作『タンホイザー』のドレスデン初演。この直後に『ローエングリン』台本も完成する。同月、ワーグナーは友人たちを集めて『ローエングリン』の台本朗読会を開く。このとき同席した友人には、建築家のゴットフリート・ゼンパー、ピアニストのフェルディナント・ヒラー、作曲家のロベルト・シューマンらがいた。朗読は友人たちに感銘を与え、シューマンは、この台本が従来の番号付きオペラでは収まらないことを理解したという。 1846年、春から作曲にかかる。3ヶ月でスケッチが完成し、9月からオーケストレーションにとりかかる。しかし、ドレスデン歌劇場の仕事のために中断を余儀なくされる。 1847年、8月に全3幕のオーケストラ・スケッチが完成。 1848年、1月から4月にかけて総譜を浄書。 1849年、ゼンパーや無政府主義者ミハイル・バクーニンらとともにドレスデンの5月蜂起に参加。しかし革命運動は失敗し、指名手配されたワーグナーはリストの助けを得て、スイスのチューリヒに亡命する。 1850年、リストの尽力によって、『ローエングリン』がヴァイマルで初演の運びとなる。ワーグナーはなんとか初演を見たいと潜入を画策するが、リストに制止されて断念。この前後、『ローエングリン』の初演を巡って、ワーグナーとリストは頻繁に手紙を交わしている。結局ワーグナーが全篇上演を見ることがかなったのは1861年のことで、ヨハン・シュトラウス2世がワーグナー紹介に努めたウィーンでの宮廷歌劇場による舞台であった。
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