ワーグナーとリスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 10:00 UTC 版)
「ローエングリン」の記事における「ワーグナーとリスト」の解説
リストは1848年からヴァイマル宮廷楽団の宮廷楽長の座にあった。ワーグナーより2歳年長のリストは、ワーグナーの音楽の紹介に努め、1849年5月に『タンホイザー』をヴァイマルで上演していた。同月にドレスデンの革命蜂起が失敗し、これに荷担していたワーグナーの逮捕状が出ると、リストはワーグナーのスイスへの出国に手を貸し、チューリヒでの亡命生活にも援助を惜しまなかった。 リストがヴァイマルで『ローエングリン』を初演指揮した直後、1850年9月2日付けのワーグナー宛の手紙には、「君の『ローエングリン』は始めから終わりまで崇高な作品だ。少なくないところで私は心底から涙を流したほどだ。」と書いている。 2人の交友関係は、リストの弟子であったハンス・フォン・ビューローと結婚した娘コジマが、不倫関係の末にビューローと別れて、1870年にワーグナーと結婚したことでいったん絶縁状態となるが、1872年にはワーグナー夫妻の熱心な招きに応じたリストがバイロイトを訪問し、和解している。
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