初演までの経緯
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1912年春頃、ディアギレフはそれまでのバレエ・リュスの振付を担当していたミハイル・フォーキンにかわり、天才ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーをメインの振付師にする決意を固めた。すでにニジンスキーは『牧神の午後』の振付を担当していたが、作品が公開されていない段階であり、その能力は未知数であった。 ニジンスキーのダンサーとしての才能は賞賛しながらも、振付師としての能力には不安を抱いていたストラヴィンスキーは、実はニジンスキーが音楽に関して全く知識を持ち合わせていないことに愕然とし、リズム、小節、音符の長さといった、ごく初歩的な音楽の基礎を教えることから始め、毎回音楽と振付を同調させるのに苦労した。 不安になったディアギレフはダルクローズの弟子ミリアム・ランベルク(マリー・ランベール)を振付助手として雇い入れ、ダルクローズのリトミックを『春の祭典』の振付に活かそうとしたが、ダンサーは疲労困憊しており、彼女のレッスンに参加するものはほとんどいなかった。 ニジンスキーは1913年の公演でドビュッシーの『遊戯』と『春の祭典』の2作品の振付を担当したが、ストラヴィンスキーによれば、それはニジンスキーにとって「能力以上の重荷」であった。振付及び指導の経験がほとんど無く、自分の意図を伝えることが不得手なニジンスキーはしょっちゅう癇癪を起こし、稽古は120回にも及んだ。しかも、主役である生贄の乙女に予定されていたニジンスキーの妹ブロニスラヴァ・ニジンスカが妊娠してしまったため、急遽マリヤ・ピルツ(Maria Piltz)が代役となった。ランベルクによれば、ピルツに対し、ニジンスキー自らが踊って見せた生贄の乙女の見本は実にすばらしく、それに比べて初演でのピルツの踊りは、ニジンスキーの「みすぼらしいコピー」に過ぎなかったという。 このような苦難の結果できあがった舞台は、レーリヒによる地味な衣装のダンサーの一群が、ニジンスキーの振付によって舞台を走り回り、内股で腰を曲げ、首をかしげたまま回ったり飛び上がるという、従来のバレエとは全く違うものであった。
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