初演までの経過
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完成した『狐』は、第一次世界大戦後にポリニャック公爵夫人邸で上演されるはずであったが、ついに上演の機会に恵まれなかった。一方、1913年に着手しつつも完成が大幅に遅れていたバレエ・リュスのための作品『結婚』は1921年にようやくオーケストレーションが固まり、1922年4月にはブロニスラヴァ・ニジンスカが振付を開始した。しかし、5月の公演に振付が間に合わないと判断したストラヴィンスキーはバレエ・リュスの主宰者セルゲイ・ディアギレフに対し、ダンサーが4名で済む『狐』に演目を変更することを提案した。これを受けてディアギレフはポリニャック公爵夫人から『狐』の上演権を譲り受けた。 ディアギレフは美術担当にセルゲイ・スデイキンを選んだが、交渉が成立せず、ミハイル・ラリオーノフが担当した。 ニジンスカは3週間で振付を仕上げ、1922年5月18日、オペラ座におけるバレエ・リュスのパリ公演でエルネスト・アンセルメの指揮により初演された。ストラヴィンスキーはこの時の演奏を絶賛したが、聴衆や批評家には理解されなかった。 バレエ・リュスでは、1929年にセルジュ・リファールによる新しい振付で上演されたが、成功作とはならず、バレエ・リュスにおけるリファールの唯一の振付作品となった。
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初演までの経過
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「道化師 (バレエ)」の記事における「初演までの経過」の解説
『道化師』の稽古は1921年春に始まった。しかし前年に、ディアギレフが『三角帽子』『プルチネルラ』などの振付で知られるレオニード・マシーンを解雇したため、当時のバレエ・リュスには中心となる振付師がいない状態であった。このため、『道化師』の振付はダンサーのタデ・スラヴィンスキーが担当し、美術担当の画家のミハイル・ラリオノフが演出も手掛け、スラヴィンスキーをサポートすることとなった。 1921年5月17日、ゲテ・リリック劇場におけるバレエ・リュスのパリ公演で、プロコフィエフ自身の指揮により『道化師』は初演された。道化師とその妻は、タデ・スラヴィンスキーとリディア・ソコロワが演じた。 当時のパリでは、まだプロコフィエフの作品は演奏されていなかったため、ディアギレフは『道化師』初演をもってプロコフィエフを初めてパリに紹介するつもりでいたが、同じことを考えていたセルゲイ・クーセヴィツキーが『道化師』より2週間早く、4月29日に『スキタイ組曲』のパリ初演を行ったために、この競争はディアギレフが敗れた。 パリでの初演は大成功であったが、その後6月9日に行われたロンドン公演では聴衆の受けは悪くなかったものの、批評家からはさんざん叩かれた。 『道化師』は翌年もパリで再演されたが、バレエとしてはさほど優れておらず、レパートリーに定着しなかった。
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