作曲と初演の経緯
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「アンドレア・シェニエ」の記事における「作曲と初演の経緯」の解説
本作品に厳密な意味での原作は存在せず、台本作家ルイージ・イッリカ(後にプッチーニの数々の名作オペラを手がける)はジュール・バルビエ『アンドレ・シェニエ』、ポール・ディモフ『アンドレ・シェニエの生涯と作品』などを参考に、実在のシェニエが綴った詩をもとにアリアの歌詞を書くなど、シェニエの詩歌作品も丹念に研究したうえで台本を執筆している。一方、実在のシェニエが残したコワニーという美女について綴った詩から自由にイメージを膨らませて、シェニエの恋人マッダレーナ・ディ・コワニーのキャラクターを創造、またシェニエに対抗する立場の役として架空の人物カルロ・ジェラールを設定するなど、物語に歌劇的な興趣を盛り込むべく、フィクションもふんだんに取り入れた。 この『アンドレア・シェニエ』台本は当初、貴族出身の富裕な作曲家アルベルト・フランケッティがオペラ化の権利を保有していたが、フランケッティと同じく楽譜出版社ソンゾーニョ社に属する若手であったウンベルト・ジョルダーノが良い台本に恵まれず苦闘しているのに同情したフランケッティが、1894年に無償で権利譲渡したものである。 ジョルダーノの作曲は1895年11月頃完成したと考えられている。この1895年-96年シーズンのスカラ座ではソンゾーニョ社が劇場運営を担当、同社に属する若手作曲家のオペラ作品を集中的に上演し、ヴェルディやプッチーニなどライヴァルであるリコルディ社帰属作品を完全に排除するという行動に出て大混乱を極めていたが、1896年3月28日の『アンドレア・シェニエ』初演はシーズン中で唯一の成功作となった。
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作曲と初演の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:07 UTC 版)
このオペラの作曲の経緯は意外なほど判明していない。通説では、第2作『一日だけの王様』の初演で失敗し、私生活では2人の子供と妻を相次いで亡くし、絶望のあまり作曲の筆を折ろうとまで考えていたヴェルディに対して、スカラ座の支配人バルトロメオ・メレッリが紹介したテミストークレ・ソレーラ作成の台本(もともとドイツ出身の新進作曲家オットー・ニコライにあてがわれたが、ニコライが「作曲に値しない」として返却したもの)に1841年秋頃までに作曲がなされたとされている。 ソレーラの台本は、旧約聖書中の記述、それを戯曲化した1836年初演のフランス語の舞台劇、ならびにその戯曲に基づき1838年アントニオ・コルテージの作曲したバレエのすべてに依拠していると考えられており、特にバレエは同じスカラ座での上演でもあり、その舞台装置、衣装など多くのものがオペラ初演時には流用されたともいう。
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