作曲と収録
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「ホワッド・アイ・セイ」の記事における「作曲と収録」の解説
チャールズの自伝によれば、「ホワッド・アイ・セイ」は、1958年の12月に行われたコンサートの終わりに、余った時間を埋めるために、彼が即興で演奏することによって偶然生まれた作品である。彼は作品の収録の前に観客の前で曲を試すということは決してしないと主張しているが、「ホワッド・アイ・セイ」は例外であった。チャールズ自身もどこでそのコンサートがあったか覚えていないが、マイク・エバンスが、著書の『Ray Charles: The Birth of Soul』の中で、ショーはペンシルベニア州のブラウンズビルで行われたと明かしている。ショーは「ミールダンス」という形式で披露され、通常は30分の休憩を含む4時間の公演であり、終了は夜中の1時か2時であった。その日、チャールズとオーケストラはすべての曲目を終えて疲れきったが、終了まで12分残っていた。彼はレイレッツのメンバーたちに、「聞いてくれ、俺が時間つぶしに演奏するから、お前たちは俺をフォローしてくれ。」と言った。 エレクトリックピアノに始まり、チャールズは彼の好きなように演奏していった。一連のリフの後で、4人のコーラスに合わせたピアノに変わり、ドラムによる、ラテン特有のコンガやトゥンバオのリズムによってバックアップされた。その後、"Hey Mama don't you treat me wrong / Come and love your daddy all night long / All right now / Hey hey / all right"とチャールズが脈絡のない詩を即興で歌い、曲調が変わった。チャールズは、12バーブルースの構造の中に、ゴスペルの要素を組み込んだ。最初の節にある"See the gal with the red dress on / She can do the Birdland all night long"は、ブギウギの形式に影響されている。アーメット・アーティガンによれば、ブギウギは、かつてフロアのダンサーを集めて、自身の歌詞を通じて何をすれば良いのかを示して見せていたクラレンス・パイントップ・スミスによって作られた。しかし、曲の中盤になると、チャールズはレイレッツに、彼がしていることを繰り返すように命じ、チャールズとレイレッツと、オーケストラのホーンセクションとが、夢中で叫び合いながら、うめき声や管楽器の大音響の中で互いに呼び合い、曲はコールアンドレスポンスへと転換していった。 観客は直ちに反応した。観客の踊りによって、チャールズは会場が揺れ、弾んでいると感じた。多くの観客がショーの終わりにチャールズに駆け寄って、どこでこの曲のレコードを購入できるか尋ねた。チャールズと彼のオーケストラはこの曲を幾日か連続で演奏し、観客から同じ反応を受けた。彼はジェリー・ウェックスラーを呼び、新しく収録する曲ができたと言った。彼は後に、「私は事前に収録を知らせることが好きではないが、この曲はそうであって当然だと思った」と書いている。 アトランティック・レコードのスタジオは丁度8トラックレコーダーを購入したところであり、レコードプロデューサーのトム・ダウドはその使い方になれようとしていた。1959年の2月にチャールズとオーケストラは、アトランティック・レコードの小さなスタジオにて、ついに「ホワッド・アイ・セイ」の収録を行った。ダウドはレコード時にはそう特別には思われなかったと回想している。この曲は行われたセッションの内の2曲目であり、チャールズとプロデューサー、バンドはセッションの最初の曲である、「テル・ザ・トゥルース」(Tell the Truth)に感動していた。「私たちはこの曲を、他のすべての曲を作り出すように作った。レイ、女の子たち、バンドが小さなスタジオの中で生きていて、多重録音もしていない。3、4テイクだけ撮って、おしまい。次だ!」とダウドは語っている。回想の中で、アーメット・アーティガンの兄であるネスヒは、この曲の非凡な音は、限られた大きさのスタジオと発展した録音技術によるとした。その音質はよく、演奏が中断されてコールアンドレスポンスのパートに入っているときにチャールズが音楽に合わせてテンポ良く足をたたく音を聞くことができる。チャールズとオーケストラは、ツアーの間に曲を完成させていたため、収録は数回のテイクで終わった。 しかし、ダウドには2つの問題があった。当時はラジオで流される一般的な曲の長さは2分半程度であったが、「ホワッド・アイ・セイ」は7分半以上も続く曲であった。さらに、歌詞は卑猥なものではなかったが、曲中での、チャールズとレイレッツのコールアンドレスポンスの音はダウドとプロデューサーの懸念事項であった。彼らが以前収録した、クライド・マクファターによる「マネー・ハニー」(Money Honey)という曲が、ジョージア州で発売禁止となったが、アーメット・アーティガンとウェックスラーは、発売が禁止されており、逮捕の危険があるにもかかわらず、マクファターの曲をリリースしたことがあったのだ。レイ・チャールズも「ホワッド・アイ・セイ」の論争を意識していた。彼は、「私は自分の曲を解釈するようなものではないが、ホワッド・アイ・セイの意味がわからなかったら、何かがおかしいのだ。それか、愛の甘い響きに慣れていないのだ。」と語っている。 ダウドは収録上の問題を、3つのバージョンを混ぜることによって解決した。「それを振れ!」という叫びは除かれ、曲は2つの3分半の、両面のシングルレコードに分割され、タイトルは「ホワッド・アイ・セイ パート1」、「ホワッド・アイ・セイ パート2」とされた。収録されたバージョンは、A面の最後にオーケストラが演奏をやめて、レイレッツとオーケストラのメンバーがチャールズに曲を続けるように願うという偽のエンディングによってA面とB面を分けて、B面からは激しいフィナーレに続く構成となった。ダウドは後に、収録が終わったレコードを聴いたとき、レコードを出さない選択肢は決してなかったと述べている。「私たちはこのレコードが間違いなくヒットするとわかっていた。」レコードの発売は夏まで保留され、1959年の6月にリリースされた。
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