列国の経済進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:42 UTC 版)
17世紀からヨーロッパとの茶貿易が始まり、イギリスは中国茶の輸入が続いて中国へ銀が流出したため、解決策としてアヘン貿易を行った。イギリス東インド会社は、自国の工業製品の販売、銀を対価としない中国茶の輸入、植民地インドの財源という3つの目的を解決するためにアヘンによる三角貿易を確立した。アヘン貿易の中継地としてシンガポールの商人が活動し、インドからのアヘン輸出が対中国貿易黒字の3分の1を占めてイギリスは赤字を解消した。これに対して清では1827年頃から貿易で入超となり、銀の流出とアヘン中毒の拡大が問題となる。清はアヘンを禁止したがイギリスは密貿易でアヘンを運び、アヘン戦争の原因となった。 アヘン戦争終結のための南京条約により、清の統治原理からはヨーロッパ諸国は互市国として位置づけられた。香港島の割譲、5港の開港、貿易自由化が決定して不平等条約につながったが、それまで非公認だった華僑の存在が認められるという変化も起きた。特許商人制度は廃止となり、広東十三行も停止されて、広東に代わる中継地として香港で南北行(中国語版)を結成する者も出る。南京条約の影響で上海や香港が急拡大を続け、イギリスは香港上海銀行を設立した。香港は中継貿易や金融で栄え、上海は最大の貿易港となる。銭荘などの伝統的な金融機関に加えて国外の銀行が相次いで進出して、上海の外灘地区は東洋のウォール街とも呼ばれた。欧米商人との仲介業者は買弁とも呼ばれ、成功した買弁は欧米型の企業家のはしりとなった。上海の通貨は銀両だったが、外国人は決済の数字を書類で目にするのみであり、現金を不潔と見なす者もいた。外国の銀行が進出するようになると、上海の銭荘や広東の銀号の中には欧米式の銀行業務を行うところも現れた。マカオは中葡和好通商条約によってポルトガルの領土となり、ポルトガル植民地の発券業務を行なう大西洋銀行が通貨としてマカオ・パタカを発行した。 清は開港によって朝貢とは異なる貿易を行うことになり、同時期に開港した朝鮮王朝や日本の明治政府、東南アジアと取り引きを盛んにした。貿易によって沿岸地域の経済力が増し、税制に重要な変化が起きる。中国の歴代王朝では土地税が財源の中心となってきたが、これに代わり、太平天国の乱の平定時に導入された流通税と、関税や外国借款が主な財源となった。東アジアの利益をめぐる各国の競争は戦争の原因にもなり、朝鮮王朝には日本と清が進出をして対立して日清戦争が起きた。清が日本に敗北すると、朝鮮は朝貢を終えるとともに、中国はヨーロッパや日本による分割が進んだ。
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