出動と解体
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「レオポルドゥス・プリムス」の記事における「出動と解体」の解説
「レオポルドゥス・プリムス」の成果に富む出動は、数々の報告に裏付けられている。例えば1673年の晩秋、艦長ベーレント・ヤーコプゼン・カープファンガーは「レオポルドゥス・プリムス」をもって、同艦がポルトガルから護衛して来た船団をフランスの私掠艦隊がドッガーバンクで襲撃した際、戦闘に勝利している。1年後、カープファンガーはサン・ヴィセンテ岬でトルコの海賊船3隻と遭遇したが、これらは早期に戦いを打ち切った。 カープファンガー率いる「レオポルドゥス・プリムス」の出動の頂点を成したのは1678年9月11日、エルベ河口でフランスの私掠フリゲート5隻を撃退した戦いであった。フランスのフリゲートはグリーンランドからハンブルクへ戻る、50隻の捕鯨船団を狙っていたのである。この時は12時間に及ぶ海戦の末、フランス艦2隻が撃沈され、残りは敗走した。ハンブルク側で失われた船はなく、「レオポルドゥス・プリムス」自体も軽く損傷したのみであった。同艦の戦死者は2名に留まったほか、1名が負傷している。伝説によればハンブルクはカープファンガー艦長を凱旋行進とともに迎え、市議会は彼に300ライヒスターラー(英語版)を贈ったという。 1679年、スウェーデン=ブランデンブルク戦争に際してハンブルクが約束していた150,000ターラーに上る補助金を強制的に徴収するべく、ブランデンブルク=プロイセンの艦隊がフリー(英語版)、ヘルゴラント島およびシェトランド諸島近海を哨戒していた時、「レオポルドゥス・プリムス」と「ヴァーペン・フォン・ハンブルク」を含む複数のハンブルク艦とブランデンブルク艦隊(ドイツ語版)が対峙に至った。どちらも戦闘準備を整えて向き合ったが、ハンブルクとブランデンブルクが交渉中であったことは誰にも分かっていたため、この対決もどうにか無事に終わっている。最終的には平和裏に、ハンブルクが未払いの資金を納めるという合意が交わされた。 1681年、カープファンガー指揮下の「レオポルドゥス・プリムス」はトルコ艦隊からスペインの白銀艦隊を救う行動に参加し、1686年8月にはクリスチャン5世率いるデンマーク軍に対してハンブルクが防戦した際、重要な貢献を果たしている。この時、市議会の決定によって提督府に、「レオポルドゥス・プリムス」を独自の判断に基づいて投入する権利が与えられたのである。その出撃とブランデンブルク並びにハノーファー艦隊の介入がなければ、市の独立はデンマークによる占領をもって終わっていたと考えられる。1693年、「レオポルドゥス・プリムス」はサン・ヴィセンテ岬付近で、今度はフランスの私掠船に襲撃された。この時には護送船団のほぼ全ての船が失われている。 1702年、「レオポルドゥス・プリムス」は当時のハンブルクが保有する3隻の護衛艦の中で最古の1隻となっており、西方に向けた護衛任務の間に強い嵐に遭い、重大な損傷を被った。艦長のシュレーダーは引き返し、イングランドのファルマス港へ退避することを余儀なくされる。視察の後、船大工たちは「レオポルドゥス・プリムス」に修理するだけの価値がないと見なした。シュレーダーはこのことを、配下の士官たちの鑑定を添えてハンブルクに報告した。この艦を売却するという提案は、市議会と提督府から却下され、「レオポルドゥス・プリムス」はハンブルクへと回航される。ハンブルクの専門家は視察の後、同艦が修理可能できるもので、彼らの一部はなお10年の航海が可能であるとした。続いて「レオポルドゥス・プリムス」は3,500マルク(1166ターラー)をかけて修理され、1703年にはグリーンランドへ向けて出航している。 「レオポルドゥス・プリムス」が次の航海へ出る前の1705年3月、護送船団委員会は士官と乗組員に、この艦が護送任務中にどのように持ちこたえたのか質問した。最も不利な証言をしたのは上等兵曹であり、 「この艦は波がない時はよく走りますが、悪天候下では走ろうとしません。」 と述べている。 何人かの専門家はなおも、「レオポルドゥス・プリムス」がイングランドへの航海を実施できると考えていたが、護送船団委員会は市議会との合意の下、同艦をこれ以上出航させないことにした。この決断は確実に、改めて修理すれば必要になっていた極端に高額な費用を背景に下されたものであった。36年を経て、ハンブルク市初の護衛艦の艦歴は終わった。その後、「レオポルドゥス・プリムス」については何も伝わっていない。1705年、恐らくハンブルクで解体されたようである。 「レオポルドゥス・プリムス」は合計でイベリア半島へ22回、イングランドへ3回、そして捕鯨船護衛のためグリーンランドへ9回の航海に出ている。これによって同艦は、ハンブルクの護衛艦として就役中に最も出動を重ねた艦となった。32回の航海をもってこれに迫る成果を挙げられたのは、「アトミラリテート・フォン・ハンブルク」のみである。どちらかと言えば、しばしば外交のために建造されたハンブルク市の他の護衛艦が、これほどの規模をもって本来の目的に対応したことは絶えてなかった。
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