全官労から国公共闘
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「日本国家公務員労働組合連合会」の記事における「全官労から国公共闘」の解説
太平洋戦争終結後の1946年から1947年にかけて、官公庁労働者の労働組合(以下、官公庁労組)の結成が急速に進み、その過程で非現業国家公務員の組合(以下、国公労)は1946年9月26日、「全国官庁労働組合協議会」(略称:全官労)を結成した。この全官労が現在の国公労連を含む国公産別の起源にあたる。 官公庁労組は国労や全逓従など現業官庁を中心に当時の労働運動を急進的に牽引した。全官労はその一翼を担い、二・一ゼネストや三月闘争、七月闘争に象徴される官公労働運動の高揚に貢献したが、1947年後半から運動は、政令201号によるスト権剥奪やドッジ・ラインにもとづく大量馘首、レッドパージなどGHQ・日本政府の巻き起こす逆風にさらされた。1950年には全官労の加盟する全国労働組合連絡協議会(全労連)と全官公庁労組連絡協議会(全官公)が解散・消滅に追いこまれる一方で、それらの潮流から分岐した日本労働組合総評議会(総評)と日本官公庁労働組合協議会(官公労)が台頭しつつあった。 このような情勢下、1951年1月25日の全官労第4回臨時大会は執行部の先鋭的方針を戦術的偏向と批判し、組織を連合会から協議会に改め、「日本官庁労組協議会」(日官労)に改称した。さらに国公労働運動の戦線統一を進めるため、同年7月21日、日官労加盟14組合は他の組合とともに「官庁労働組合協議会」(官労)を結成し、日官労は解散した。これは日官労が当時参加していた官庁給与共闘を発展させたものである。官労発足当初は22組合が正加盟、6組合がオブ加盟していた。 1952年、今度は官労と官公労の間で、破防法制定と労働関係調整法改正に対する反対闘争の統一行動をとおして、組織統一の機運が高まった。当時の両組織の勢力は、官労が8万5,000人、33組合、官公労は155万人、19組合だった。前者は国公労であり、後者は国労、全逓、日教組、自治労協、全農林などを翼下に収める、三公社五現業・地公・国公の全官公庁労組を網羅していた。1952年6月、官労は総評への加盟と、「官公労との共闘を強化し、すべての官公庁労働戦線の統一」を機関決定した。数十回の折衝の後、官労と官公労は官労が解散し、その加盟組合は官公労へ個別に一斉加盟する旨を確認した。1953年6月8日、確認は実行され、官公労働戦線の統一が果たされた。また、同時期に官労加盟組合が総評に相次いで個別加盟した。合同の翌7月には官公労加盟のすべての国公労から構成される官公労下部機関の「国公部会」が発足する。 1954年7月、人事院は民間賃金が公務を9%以上上回ることを認めつつ、給与勧告を行わず、続く1955年の勧告でも政府にベースアップを求めなかった。この措置は国公労働者の不満を高め、労組間の結束を強固にする結果となり、1956年2月7日、国公部会の全組合は独自の共闘組織である「日本国家公務員労働組合共闘会議」(国公共闘)を結成し、官公労からの相対的な自律性を強めた。この国公共闘の後身が現在の国公労連である。 官公労の部会が独自の共闘組織を結成して自主性を強める動きは1950年代、他の2部会にも興り、公企労部会では公労協、地公部会では地公連が形成された。官公労の主要労組は同時に総評の中核でもあったため、官公労は総評と活動が重複することが多くなり、官公労働戦線統一の5年後である1958年8月11日、官公労は第10回大会は解散を決議した。自動的に官公労の機構である国公部会は消滅し、国公労を統合する機能は国公共闘へ一本化された。当時(1958年6月末)の国公共闘組織人員は約22万6000人であった。
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