全学連への資金提供
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1960年『文藝春秋』1月号に「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」という文章を発表。このなかで田中は「全学連の指導的立場の諸君! 諸君の殆どが、日共と鋭く対立しつつ、新しき学生共産党とも云うべき共産主義者同盟を組織し、学生大衆運動の盛り上げに腐心して居ると聞くが、自分は三十有余年前、大正末期、未だ幼年期にあった学生運動を組織したものの一人として、更に、昭和三年(一九二八年)からは、日本共産党の指導的立場に在った者として、諸君の動向を目にし耳にするにつれ、諸君に訴えずには居られぬものを感ずる。」と呼びかけ、「甚だ諸君には御気の毒な事だが、日本の労働者大衆は誰れ一人として君等共産主義者同盟の考え方や、そのデモ闘争を支持しているものはないのだ。君等が自分自身で労働者大衆に支持されているかの様に思い込んでいるのは、とんでもない君等の自惚れだ。」と批判し、「政治と経済・文化を掌握して動かして行くものは、今日では最早、資本家でもなければ、プロレタリアートでもなくて、実に技術者を含めた経営者と称するインテリゲンチャーである」と訴え、全学連の安保闘争に共感を示しつつ、その限界を指摘した。 これを読んだ全学連書記長島成郎が田中からの資金カンパを思いついて田中を訪い、田中は全学連の「反代々木・反モスクワ・反アメリカ」が気に入り、これに応じる。田中は次のように回想している。「革命運動はいいんだ。帝国主義反対というのが、全学連のスローガンだった。しかし、帝国主義打倒というのを、アメリカにだけぶっつけるのは、片手落ちじゃないかと僕は言った。「ソ連のスターリン大帝国主義、専制政治はどうしたんだ」とね。そうしたら、そうだと。それで、これは脈があるなと思って、資金も提供し、話もした。私のところにきたのは、島成郎です。最初、子分をよこしました。いま中曾根君の平和研究所にいる小島弘君とかね。東原吉伸、篠原浩一郎もだ。」 。全学連の唐牛健太郎らはのちに田中の企業に就職する。田中の秘書で日大空手部主将だった藤本勇をデモに派遣したりもした。 1963年、TBSラジオが『ゆがんだ青春/全学連闘士のその後』(吉永春子)を放送し、島や唐牛らが田中から資金援助をうけていたことが報じられる。日本共産党は『赤旗』で、「右翼と結びついていた」として全学連を連日批判した。後輩の柄谷行人も同主旨で批判した。 島自身は田中との関係について、次のように回想している。「スキャンダルめいて報じられた田中清玄氏との関係も、伝えられるような決して低次元のものじゃありません。まあ、発端は金でしたけれども。経緯を少し話しますと、当時の全学連はものすごく金がかかった。事務所も、自前の印刷工場ももっていたし、宣伝カーも調達しなければならない。(中略)その頃田中清玄氏が、『文藝春秋』に学生運動に共感を示すような文章を載せたんですね。それを見て、「お、これは金になるかもしらん」といって、出掛けていったわけです。(中略)会ってみると田中氏本人は、どこにでも飛び込んで誰とでも仲良くなれるという、唐牛みたいな性格の人で、昔の血が騒ぐというのか、あとあとまで「オレが指導者だったら、絶対にあのとき革命が起こせた」としきりにいうくらい情熱的でした。でも案外金がないらしくて、当時奥さんの胃潰瘍の手術費用にとっておいた何十万かを回してくれたんです。大口ではあったけど、大した金額じゃありません。それで私達の運動がどうなるというものでもなかった。これがキッカケになって、のちのち家族ぐるみというか、人間的な付き合いがつづいたわけです。」
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