元禄から化政にかけて
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江戸期に表千家が果した役割として茶道史上特筆すべきは、6代覚々斎以降の、町方への普及である。元禄期を頂点とする江戸中期は経済の実権を町人が握り、千家は例えば三井家の当主八郎右衛門など富裕町人を大量に門弟として受け入れた。そのため、従来の指導方法・組織では対応できなくなり新たな指導方法・組織が生み出され、(2)町人文化の影響を受けて新たな茶風へと変容した。特に7代如心斎は、実弟である裏千家8代一燈宗室や、高弟である川上不白らと共に時代に即した茶風を創り出した家元として名高く千家中興と称される。 (1)の新たな組織というのが、現在の芸事一般に見られる家元制度である。家元である千家当主が直属の門弟に稽古をつけてその分の教授料を取る。直属の門弟は自分の弟子に教えて教授料を取りその一部を家元に上納する。その弟子は更に自分の弟子に稽古をつけ、授業料を受け取りその一部を自分の師匠に上納する仕組みで、家元を頂点としたピラミッド型組織である。また家元は原則として許状(ゆるしじょう・おゆるし)の発行権を独占しており、中間の師匠は自分より上位の師匠、さらに家元へと許状の発行申請を取次ぎ、御礼(申請のための費用)も上納する義務がある。これによって家元を権威付け、分派独立を防ぐと同時に組織の経済的基盤を確立することができたといえる。 また同じく(1)による門弟数の増加に対応する新たな指導方法として七事式が制定された。如心斎、一燈宗室、川上不白、無学宗衍、堀内宗心らは、利休時代から存在していた茶カブキ、廻り炭、廻り花に加え、花月、且座、一二三(いちにさん)、員茶(数茶、かずちゃ)を考案し、碧巖録の七事随身の語からとって、七事式と名付けた。基本的に五人一組となって各人それぞれ役割が割り当てられ、五人が一度に稽古できるというものである。遊戯性があり大流行した。そのために花月楼とよばれる八畳敷きに一間床の広間が好まれ、江戸をはじめ各地に写しの茶室が造られた。 (2)の新たな茶風は、端的に言えば、自由闊達な気風が吹き込まれたことである。 この7代如心斎らが行った組織改革は後世に千家流茶道を伝える基盤整備である一方で、単なる指導方法の変更のみならず、小規模空間で小人数をもてなすわび茶の世界を大きく変えていくことになる。如心斎の高弟だった川上不白は、江戸へ赴き武家社会に千家流をひろめ、のち江戸千家などの流祖となった。 8代啐啄斎のとき天明8年(1788年)の大火により、表裏両千家は伝来の道具のみを残して数々の茶室はすべて焼失してしまった。しかし翌年までに速やかに再建されて、利休居士二百回忌の茶事を盛大に催している。こうした復興が可能だったのも如心斎らによる家元制度の整備によるところが大きいと考えられる。 ちなみに三井家は紀州藩領であった伊勢松坂が一族のルーツであり、それが縁で紀州徳川家とは強いつながりがあった。三井家の惣領の家柄である三井北家6代三井高祐が紀州和歌山城下(西浜御殿)に招かれた際には、高祐が手造りした茶碗に治宝が亀の絵を描くなどしている。治宝や斉順が下賜した茶道具類が現在三井家には多数伝わっている。
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