保留地での生活
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「シッティング・ブル」の記事における「保留地での生活」の解説
1883年、タタンカ・イヨタケは北西510キロメートルのミズーリ川沿いのスタンディングロック保留地管理事務所に移送された。この保留地の監督官はジェームズ・マクローリンという、白人とスー族の混血の妻を持つ男だった。マクローリンはタタンカ・イヨタケを非常に警戒していた。彼の影響力をよく知っていたからである。マクローリンは事あるごとに彼に干渉した。彼が二人の妻を持っていることにも干渉し、一人にするよう強要した。大戦士は「そんなに言うなら、お前が妻それぞれのところへ行って直接彼女らに言えばいいだろう」と答えた。インディアンの社会では結婚も離婚も全くの個人の自由であり、他人が口をはさむこと自体マナー違反である。 武装解除され、保留地に入ったタタンカ・イヨタケを、白人社会は名士扱いし始めた。白人は彼を「すべてのスー族の大指導者」だと思い込んでいるから、アパッチ族のジェロニモをそう扱ったように、彼を見世物として面白がったのである。 1884年9月、彼は「部族の窮状を大統領に直訴できる」とのアルバレン・アレンという白人興行主の約束に乗せられて、合衆国15都市での見世物興行に出かけた。アレンはシッティング・ブルを「カスター中佐を殺した張本人」と宣伝し、この大戦士が友好的な挨拶を述べている横で、これを白人群衆に対してリトルビッグホーンでの身の毛もよだつような話に捏造して紹介した。この興行で、シッティング・ブルは女ガンマンのアニー・オークレイの曲撃ちを見て感激し、彼女を何度も「ワタンヤ・シシリア」(小さな名射撃手)と呼んだ。だが、アレンが約束した大統領との会談は結局嘘だった。 1885年、バッファロー・ビル・コディの興行『野生の西部ショー』の地方公演に参加した。コディはアレンと違って本当に彼をグロバー・クリーブランド大統領に引き合わせたが、「部族の窮状を訴える」という希望は叶えられなかった。ワシントンでの巡業では、ショーを見に来た白人たちに「お前達は嘘つきだ。我々の土地を盗んだ泥棒だ」と演説した。言葉の判らない観衆は大拍手でもってこれに応えた。シッティング・ブルはコディと親友になり、コディは週給50ドルを彼に払った。公演中、シッティング・ブルは小銭をせがむ白人の児童浮浪者たちに、気前よく銀貨を恵んだ。彼が興行を引退する際には、コディは灰色の馬とソンブレロを贈った。 1887年、バッファロー・ビルは彼にショーのロンドン公演に同行し、ビクトリア女王の在位50周年式典に参加しないかと誘った。しかし「大いなる母」と会えるこの機会を、彼は断り、こう述べている。 「私があちこち歩くことは我々の主張にとって良くない。私はここですることがたくさんある。我々の土地について話すことがたくさんあるのだ。」 合衆国は再び条約を破り、西ダコタのスー族保留地から、4万平方キロメートルの土地を、「4000平方キロメートル当たり50セント」という驚くような安値で買い叩こうとしていた。すでに平原には、彼らが命の糧とするバッファローの姿はなかった。白人たちは「悪いインディアン」を滅ぼすために、バッファローを滅ぼしてしまっていた。シッティング・ブルは白人のこの提案に強く反発し、他の保留地のスー族を説得した。合衆国は買い叩いたスー族の土地を、白人入植者に「4000平方キロメートル当たり25ドル」で払い下げようと計画していた。 1888年8月、政府の役人たちがスー族の土地を買い叩くためにスタンディングロック管理事務所にやって来た。イェーツ砦で、並みいる合衆国の代表たちを前に、シッティング・ブルは熱弁をふるい、合衆国の脅迫交渉を巧みに妨害したため、役人たちが彼に話をさせまいとすることも再三に及んだ。シッティング・ブルは酋長たちと合議して、結局、ワシチューの持ちかけた土地売却の「受け入れ」か「拒否」か、どちらかの書類に署名せよとの要求をほぼ全員で拒絶した。 1888年10月15日、ワシントンDCで、ジェームズ・マクローリン保留地監督官の主導によって、シッティング・ブルらスー族の代表団60名と内務長官ウィリアム・バイラスとの交渉が持たれた。合衆国は「4000平方キロメートル当たり1ドル」まで買い取り価格を上げたが、スー族は納得しなかった。故郷では保留地監督官の怠慢と横領によって食糧年金がまとも配給されず、部族員は飢えに苦しんでいた。1889年に、合衆国は「4000平方キロメートル当たり1ドル25セント」まで買い取り価格を上げ、「ドーズ法」に基づき、「スー族の世帯主一人当たり130ヘクタールの土地を付与する」との条件が付けられた。また、いつものように白人に土地を騙し盗られないように、「この土地の権利を25年間、連邦政府に信託保留させる」とした。 この条件下で、スー族は合衆国に押し切られ、それぞれのスー族は土地の売り渡しの合意文書に署名した。シッティング・ブルはこう怒りの弁を述べている。 「インディアンだって?私の他にはもうインディアンは残っていない!」 この「ドーズ法」の「スー族の世帯主一人当たり130ヘクタールの土地を付与する」との条件は、大変な問題をはらんでいた。インディアンの社会は母系であり、財産権はそもそも妻が持っていた。しかし、父系社会のルールをインディアンに押し付け、財産権を母方から父方に移す合衆国のこの政策は、インディアン社会を混乱させ、崩壊させる一大要因となっていくのである。
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