佐々木営業部からレナウンへ
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「尾上清」の記事における「佐々木営業部からレナウンへ」の解説
レナウンの前身は大阪で佐々木八十八(ささき やそはち)と尾上設蔵(せつぞう)によって1902年に創業されたメリヤス等の繊維卸売業「佐々木営業部」。 1911年、尾上清は同社の支配人、尾上設蔵の長男として大阪市住吉区帝塚山に生まれた。帝塚山学院小学部、住吉中学をへて慶應義塾高等部に進む。卒業と同時に東京佐々木営業部に入社。同期入社に本間良雄、鈴木達雄、尾上俊郎など後の最高幹部たちがいた。 1922年、英国皇太子エドワードが巡洋戦艦レナウンで具奉艦ダーバン(英語版)とともに訪日。佐々木営業部はメリヤス等の商品ブランドとして「レナウン」を商標登録した。 1938年、尾上清は招集され中国の天津に駐留。 1940年、復員して伊勢丹の小菅丹治社長(初代)の長女、喜子と結婚。達矢、美智子をもうける。 1941年、2度目の招集で熊本の天草聯隊に入隊。除隊して商品部長になる。 1944年、平和産業の営業は困難になり、佐々木営業部は「江商」と合併する。尾上清は3度目の招集で沖縄の部隊に入隊、終戦を宮古島で迎えた。復員後に江商衣料品部長になる。 1947年、尾上清は佐々木営業部を再建し社長に就任。資本金19万5千円、社員25名、大伝馬町の江商ビルの一部を借りて営業を開始した。当初は利益の上がらない会社だったが、尾上は人材や生産設備、宣伝には惜しみなく投資を続けた。「先行投資と消費者重視が2大政策」として1950年代以降から週刊誌やラジオで宣伝を開始した。小売部門として大阪心斎橋に有信実業を設立し石津謙介らと「レナウン・サービス・ステーション」と「田中千代デザイン・ルーム」を設立。素人のモデルを使い戦後初のファッションショーを文楽座で催した。 1949年、洋裁ブームにのって高級婦人服地「レナウン・ファブリック」を発売しファッション・ビジネスへの指向を強めていった。 1952年、製造部門である東京編織を「レナウン工業株式会社」に、3年後に佐々木営業部を「レナウン商事株式会社」に社名変更した。 1956年、レナウン商事の社長に本間良雄、レナウン工業の社長に鈴木達雄が就任、尾上清は両社の会長になった。本社を神田鎌倉町(現在の千代田区内神田の一部)に新築移転。同年、札幌、仙台、名古屋、広島、福岡の5都市に販売会社を設立し地方小売店への販路拡大を図る。レナウン・チェーンストア(RS)を全国に展開し「暮らしの肌着」を発売した。
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