伯国の陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:49 UTC 版)
ジョスランは1131年に戦いで殺されたため、彼の息子ジョスラン2世が伯国を後継した。しかし、この時までにムスリムの強大なアタベクザンギーがアレッポおよびモースルを結合して支配しており、エデッサを脅かし始めた。その間、ジョスラン2世は東ローマ帝国皇帝ヨハネス2世コムネノスのシリア遠征に付き合わされたが、結局この遠征はザンギーの離間策によって中止された。ジョスラン2世はザンギーの脅威が高まる間、自国の安全に注意をほとんど払わず、救援を拒むトリポリ伯国と口論を続けていた。1144年の段階で、同じ十字軍国家であるアンティオキア公国やトリポリ伯国とは抗争で仲が悪く、強大な国である東ローマ帝国やエルサレム王国はヨハネス2世やフルク王が亡くなったばかりで安定しておらず、頼れる国がどこにもなかったので、増大するザンギーの勢力に抵抗するため近隣のディヤルバクルのアルトゥク朝の領主カラ・アスラーンと連合した。 1144年の秋、ジョスラン2世は全軍とともにカラ・アスラーンと合流し、エデッサの西のテル・バーシルまで略奪戦に出かけた。これを聞いたザンギーはすぐさまエデッサ包囲戦(英語版)を開始し、街の北の「時の門」のそばに陣を張った。街は庶民ばかりで軍隊はおらず、司教たちが指揮を執ることになった。司教らは、キリスト教徒のアルメニア人はザンギーに降伏しないだろうと期待していた。エデッサは難攻不落の城塞であり市民は防衛に奮戦したが、誰も攻城戦の経験がなく、城塞の守り方や守るべき要所を知らず、工兵が城壁下にトンネルを掘り始めてもなすすべがなかった。 度重なる休戦協定はエデッサ側の拒否で失敗に終わり、ザンギーは街の北の城壁の土台を取り除き、材木で支えて油や硫黄を一杯につめ、12月24日、ついに火を放った。油は燃え上がり城壁は崩れ落ち、ザンギーの軍が侵入して城郭に逃げられなかった人々を虐殺した。城郭は司祭の過失から固く閉まっており、殺到した群衆がパニックに陥り司祭も含む5,000人以上が圧死した。ザンギーは殺戮の中止命令を出してキリスト教徒の代表と話し合い、12月26日に街はザンギーに明け渡された。 アルメニア人やアラブ人のキリスト教徒は解放されたが、西洋人を待っていた運命は過酷だった。持っていた財宝は没収され、貴族や司祭たちは衣服をはがれて鎖につながれアレッポへと送られ、職人たちは囚人として各職種別に働かされ、残り100人ほどは処刑された。ジョスラン2世は自らの首都が失われる間、遠くテル・バーシルにとどまったままであった。 この事件は十字軍国家を震え上がらせ、エルサレム王フルクの未亡人メリザンドはヨーロッパに特使を送り、その惨害と救援要請を訴えた。これが第2回十字軍を招くことになる。またムスリム世界は、はじめての勝利らしい勝利に熱狂し、バグダードのアッバース朝カリフはありとあらゆる美辞麗句に満ちた敬称をザンギーに与えた。後のムスリムの年代記作家らはこれを十字軍国家に対するジハードの始まりと述べている。 ジョスラン2世はテル・バシールでユーフラテスの西側の領土をかろうじて支配し続け、エデッサ回復のため市内の残存勢力と連絡を取り合い努力した。彼はザンギーが1146年9月に急死したのを受け、すぐさまエデッサを回復したが、ザンギーの息子ヌールッディーンの攻撃により11月にはエデッサを再び放棄した。部下の多くが殺され、ジョスラン2世はかろうじて逃げ延びた。1150年に彼はヌールッディーンに捕らえられ、1159年に死ぬまで、ヌールッディーンの拠点であるアレッポで虜囚にされたままだった。 ジョスラン2世の死後、彼の妻と家族はすぐさまテル・バシールや残された伯国領土を東ローマ皇帝マヌエル1世コムネノスに切り売りし、エルサレム王国へと去ったが、テル・バシールは1159年のうちにヌールッディーンとルーム・セルジューク朝に奪われた。エデッサは最初に獲得した十字軍国家であり、最初に失われた十字軍国家ともなった。
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