会社倒産に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 19:52 UTC 版)
本鉄道は末期には「電鉄」と名乗っていたものの電化はされず、最後まで非電化軽便鉄道規格のままであった。 磐梯急行電鉄への社名変更は、1960年代後半になって日本硫黄観光の経営権を掌握した薬師寺一馬や、薬師寺とともに経営陣に加わった住谷甲子郎が、本鉄道線の接続する磐越西線の電化に合わせ、1067mm改軌・交流電化による磐越西線直通、牧場やスキー場・別荘地などの観光開発促進という計画を唱えたことによるものであった。 もっとも、一連の事業計画は必要な資金を福島県や農林中央金庫からの融資で賄うというものなど、同社の苦しい実情から鑑みればあまりにも現実離れしており、実現の見込みは皆無であった。このため日本硫黄時代から保有していた山林の含み益や場合によっては転売するなどして、何とか資金捻出を図った。だが、それらも実際には金融機関が担保としていたり、そもそも移転登記すら行われていないものだったりして、場合によってはトラブルにまで発展した。 加えて、経営実態に見合わない過大な利益計上や8分あるいは1割といった高率の配当実施など、健全な企業経営の原則から大きく逸脱した不自然な経営が常態化。倒産直前の1968年(昭和43年)には磐梯急行電鉄株(東京証券取引所二部上場)が仕手筋の介入によると見られる異常な値動きを示し、投機筋によるマネーゲームに翻弄されるがままに陥った。 結局のところ一連の倒産直前の経営は、投機筋や出自の怪しい不動産業者が、倒産間際ではあるもののそれなりに社会的信用があった会社を隠れ蓑として、投資家から資金を集めながら企業の資産を食い潰したと見ても差し支えない。しかも唐突な会社更生法申請でさえ計画倒産に類するものであったと言われ、鉄道事業そのものの経営状況とは無関係に、経営的に不明朗な経緯で廃線に追い込まれたものであった。倒産当時はスキャンダルにもなったようで、新聞や雑誌に数々取り上げられたという。 この休止→廃線は鉄道運行に当たっていた職員にとっても沿線住民にとっても青天の霹靂と言うべき事態であったらしく、労働組合による抗議・鉄道存続に向けた活動なども行われたとされる。だが、介入前の段階で既に鉄道部門は赤字経営となっており、さらに施設が総額20億円に上る負債支払いのため差し押さえ対象となったこともあり、そのまま路線廃止が実施されている。
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