企業女子スポーツの成長・発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 20:25 UTC 版)
「日本のバレーボール」の記事における「企業女子スポーツの成長・発展」の解説
極東選手権では男子は終始先進国のフィリピン、中国の後塵を拝して振るわなかったが、国内では明治神宮体育大会を中心に、学校、会社、工場方面において、好個の女子スポーツとして普及発展した。1928年開始の全日本選手権では愛知淑徳高女が第一回から5連覇したが、1934年、35年の全日本選手権女子では広島専売局が優勝している。この頃企業に女子バレーを導入したのは、日紡、倉紡、鐘紡などの紡績企業であった。1936年は錦華紡績が、1937から39年は日紡尼崎紡績が全日本選手権で優勝した。 企業の安価な賃金労働力の供給源となったのは、地方の中学、高校を卒業した若い女性であったが、紡績産業には戦前の綿埃にまみれた重労働という女工哀史に見られたような不健康で不健全というイメージが広く流布していた。そのため職場や仕事の健全さを世間に向けてアピールすることは、労働力を確保するために必要な戦略であった。そこに紡績企業が女子スポーツに注目し力を注いだ理由がある。大量の女性労働者に対し、生活を律し、仲間意識を持たせ、企業忠誠心を高揚させる役割も企業スポーツにはあった。また日紡の原社長のように「企業スポーツの隆盛は企業の隆盛のバロメーター」という考えも強かった。1947東日本、西日本実業団選手権開始。1948年の全日本総合で鐘紡淀川が準優勝、1949年から全日本実業団選手権の開始。1950年時点で登録チーム210を数えた。1951年の全日本総合で鐘紡四日市が優勝し、以後は日紡足利、倉紡津など実業団チームの優勝が不動となる。この頃から女子バレーボール界では、上位はすでに実業団によって完全に占められていた(五十年史)。よって「1960年当時の企業では、〜(略)〜このころの実業団チームのレベルは余り高くなく、男子は大学、女子は高校の方が優位であった」(バレーボール年代記)という記述は誤りである。1954年、日紡がバレーボール部を貝塚に集約し最強チームとなるが、9人制全日本総合で1950年代に2回優勝し、全日本実業団9人制で1959年から4連覇した倉紡倉敷の活躍も特筆される。日紡貝塚は他に先んじて6人制を強化し、58年開始の6人制全日本総合では9連覇を達成。1960年世界選手権で日本代表で2位、1962年の世界選手権でソ連を破っての優勝で国民的英雄となった。1964年の東京オリンピックでの日紡貝塚を中心とする日本代表の金メダル獲得もあり、女子バレーボールは企業スポーツの花形として発展していった。1965年時点の登録チーム数は456。
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