企業家としてのプレイエル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 22:57 UTC 版)
「イグナツ・プライエル」の記事における「企業家としてのプレイエル」の解説
プレイエルは1795年にパリに移った。1797年に、数ある作品のうちにハイドンの弦楽四重奏曲の完全版(1801年)や研究のための最初のミニチュア・スコア(『音楽叢書(Bibliothèque Musicale)』)も手がけた音楽出版社(「Maison Pleyel」)の仕事を立ち上げた。出版業は39年続き、ボッケリーニ、ベートーヴェン、クレメンティ、ドゥシークを含む約4000作品をこの間に出版した。 1807年には、ピアノ製作会社プレイエルを設立。 1824年に勇退し、パリから約50kmの郊外に移った。自分の音楽様式が新しいロマン派音楽に完全に取って代わられていることに、明らかに気付いていた。1831年に他界し、ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。墓碑はショパンの墓の右脇にある階段を数ブロック上がったところにある。
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