人種差別との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 14:18 UTC 版)
「W・E・B・デュボイス」の記事における「人種差別との戦い」の解説
デュボイスはNAACPにおける自身の影響力ある役割を利用して様々な人種差別事件に反対した。無声映画『國民の創生(The Birth of a Nation)』が1915年に初演されると、デュボイスとNAACPはこの映画を禁止するべく戦った。これはこの映画が黒人を下劣かつ好色な存在として人種差別的に描写していたことによる。この戦いは成功せず、むしろ映画を有名にすることに貢献したが、しかし宣伝によってNAACPは多くの新しい支持者を得た。 民間部門だけがレイシズムの源泉ではなかった。ウィルソン大統領の下で政府に勤務するアフリカ系アメリカ人は窮地に立たされた。多くの連邦機関が白人のみを採用する習慣を採用し、陸軍は将校から黒人を排除し、そして移民局はアフリカ系の移民を禁止した。デュボイスは1914年に連邦の役職からの黒人の解雇を嘆く論説を書き、ウィルソンが黒人への正義という選挙運動の公約を果たせなかったことについてウィリアム・モンロー・トロッターが不愛想にウィルソンと対立すると、トロッターを支持した[訳語疑問点]。 『The Crisis』はリンチ反対運動を続けた。1915年には1884年から1914年までの2,732件のリンチを年ごとに表にまとめて公表した。1916年4月号はジョージア州リー郡の6人のアフリカ系アメリカ人に対するリンチを取り上げた。1916年の後半には「ウェーコの恐怖(Waco Horror)」の記事で精神障害を持つ17歳のアフリカ系アメリカ人に対するリンチ事件、ジェシー・ワシントンリンチ事件を取り上げた。この記事はウェーコの白人たちの行為を暴露するために覆面報道を用いて新境地を切り開いた。 20世紀初頭は合衆国南部から北東部、中西部、西部への黒人の大移住(Great Migration)の時代であった。デュボイスはこの動きを南部のレイシズムから黒人が逃れ、経済的な機会を掴み、アメリカ社会への同化をする助けになると考え、Great Migrationを支持する論説を書いた。 また、1910年代はアメリカにおける優生学の流行(英語版)の揺籃期であり、指導的な優生学者の多くは公然たる人種差別主義者であった。彼らは黒人を「低級人種(a lower race)」と定義した。デュボイスはこの見解を非科学的な逸脱(aberration)であるとして反対したが、未だ優生学の基本的原則-異なる人は先天的特徴を異にし、これによって多かれ少なかれ特定の種類の仕事に適正を持つ。そして全ての人種の中から最も才能ある人々に子孫を作ることを奨励することによって人類の「種」を改善することできる-を支持し続けていた。
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