人種問題の悪化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 06:19 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918)」の記事における「人種問題の悪化」の解説
1870年代末からアフリカ系アメリカ人はレコンストラクションの間に得ていた多くの公民権を失い、次第に人種差別を受けるようになった。リンチや人種暴動など差別主義者による暴力が増し、南部州におけるアフリカ系アメリカ人の生活水準が著しく後退した。1877年妥協の後で成立したジム・クロウ法、およびクー・クラックス・クランの勃興が社会不安の重要な要因になった。1879年には既に中西部に向けての脱出を決心した者が多く、第一次世界大戦前に始まった大移住の間にこの動きが激しくなった。顔を黒く塗った白人によるミンストレル・ショーのような演し物はステレオタイプの人種差別主義者を再現した(有名な俳優としては、サム・ルーカス(1850年-1916年)がおり、ハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』の戯曲でアンクル・トムの役を演じた最初の黒人だった)。 1896年、合衆国最高裁判所は「プレッシー対ファーガソン事件」判決で、人種分離と「分離すれども平等」原理を支持して、アメリカ合衆国憲法修正第14条と同第15条を実質的に無効にした。 D・W・グリフィスの1915年の映画『國民の創生』はクー・クラックス・クランの2度目の勃興を世に広め、「科学的人種差別」理論が以前の差別主義者の偏見や白人至上主義の提唱者に新しく正当性を与えた。19世紀に白人が他の全てに対して優れているという概念が科学的思考の主流になった。かくして素人の人類学者かつ優生学者で、ニューヨーク動物学協会の会長であるマディソン・グラントは、1906年にニューヨーク市のブロンクス動物園でコンゴ・ピグミー族のオタ・ベンガを猿やその他の動物と共に展示した。グラントの命令で動物園の支配人はオタ・ベンガをオランウータンと同じ檻に入れて「失われた環」と表示し、進化論の中でオタ・ベンガのようなアフリカ人はヨーロッパ人よりも猿に近いという仮説を演出した。
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