人種差別と排日移民法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 09:36 UTC 版)
「一世 (日系人)」の記事における「人種差別と排日移民法」の解説
「排日」を参照 1882年に制定され、当初は10年間の時限措置だった「中国人排斥法」の適用延長を支持したアメリカの世論は、1900年以降になると一世を含めた全てのアジア系移民に対する社会的な抗議活動と化した。多くの中国系移民がアメリカを去ったことから、その敵意は一世に襲い掛かった。アメリカの労働者団体は、排日運動を広げる際にイニシアチブを取った。白人は、勤勉なアジア系移民が成功を収めるのを目の当たりにして、彼らを排斥したがった。その結果、1905年に日本人と中国人をアメリカの労働者の脅威と見做した67の労働組合が、サンフランシスコでアジア排斥同盟を結成した。同盟の主張は、一世に対する監視と攻撃を求めるものだった。このように排日が吹き荒れる中、1906年10月にサンフランシスコ教育委員会は、市長の選挙公約に基づいて、全ての日系と韓国系の生徒を、中国人と同じ学校に隔離するように命令した。この扱いに一世達は憤慨し、一部の者は日本の新聞社に一連の出来事を投書するなどした。このことから、日本政府がセオドア・ルーズベルト前大統領に抗議したことから、1907年に両国間において、アメリカ政府は既にアメリカに在住している日本人移民の公立学校排斥などの差別待遇をしない代わりに、日本政府は在米労働者の父母・妻子と農業定住希望者以外に米国への旅券を出さない、といった内容の「日米紳士協約(英語版)」が締結されるに至った。 1911年までに渡米した日本人移民の約半分は、夫と再会するため渡った女性だった。紳士協約の締結後、多くの二世達がカリフォルニアで生まれた。にもかかわらず、多くの白人達は日本人移民に対する差別を止めなかった。一世は勤勉で、法律を遵守し、家族と地域社会に対して献身的なまでに尽くしていたことなどからも、アメリカ市民の模範とも言える存在だった。しかし、当時のアメリカでは、そのような一世の長所に目が向けられることはあまりなかった。 「排日移民法」の制定は、一世が差別との戦いに敗れたことを意味した。それでも、一世達は従来「使えない」とされていた土地で米の栽培を促進することを非常に得意として、カリフォルニアの日本人農民は、米を同州の主要な生産物にまで押し上げた。最大の一世コミュニティは、サンフランシスコ近郊のバカビル(英語版)周辺で形成された。
※この「人種差別と排日移民法」の解説は、「一世 (日系人)」の解説の一部です。
「人種差別と排日移民法」を含む「一世 (日系人)」の記事については、「一世 (日系人)」の概要を参照ください。
- 人種差別と排日移民法のページへのリンク