人種差別とグレース・ケリーとの交友
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 07:23 UTC 版)
「ジョセフィン・ベーカー」の記事における「人種差別とグレース・ケリーとの交友」の解説
ベーカーは第二次世界大戦後もフランスで生活していたが、1950年代にはアメリカの公民権運動の支援に手を貸している。また、ベーカーはさまざまな人種の12人の孤児を養子とし、しばしば経済的な危機に瀕しながらもフランスの古城で生活を共にした。エリザベス・サンダース・ホームの沢田美喜とは同志かつ親友と呼べる間柄で、養子をサンダースホームから譲り受け育てるとともに、来日した際の公演収入をホームに寄付するなど惜しみない援助を行っている。 1951年に、ニューヨークのナイトクラブに客として入店しようとしたベーカーを、店が拒否するという人種差別事件(「ストーク・クラブ事件」)が起きた。この時、たまたま店に居合わせて、店側に猛然と抗議するベーカーの様子を見た映画女優のグレース・ケリーは、初対面の彼女を庇って一緒に店を出て、自分のパーティーが終わるまで店に戻らなかった。 これがきっかけで始まった2人の交友は、ケリーがその後モナコ公妃になってからも長く続くこととなり、ベーカーが経済的に危機に陥った際にケリーが援助したりした。
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