人形浄瑠璃についてとは? わかりやすく解説

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人形浄瑠璃について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 05:45 UTC 版)

文楽」の記事における「人形浄瑠璃について」の解説

人形芝居江戸時代初期三味線音楽浄瑠璃と結びついて生まれたとされる太夫では竹本座大坂開いた竹本義太夫作者では近松門左衛門紀海音といった優れた才能によって花開いた一時期歌舞伎をしのぐ人気誇り歌舞伎にもさまざまな影響与えた今日でも櫓下最高位太夫)は芸事における地位が高いとされる多く歌舞伎人形浄瑠璃翻案であり、浄瑠璃省略なく収めた本を丸本称するころから丸本物まるほんもの)と呼ばれるその後福内鬼外平賀源内)により江戸浄瑠璃発生した18世紀末から19世紀はじめにかけて(寛政年間)、淡路仮屋出身初世植村文楽軒歌舞伎人気押され廃れつつあった人形浄瑠璃系統引き継ぎ高津大阪市中央区)に座を作り再興させた。この劇場1872年三世植村文楽軒文楽翁)の時に松島大阪市西区)に移り、「文楽座」を名乗る大正期には文楽座唯一の人形浄瑠璃専門劇場となったことから、人形浄瑠璃代表的存在となった1909年には文楽座松竹経営となり、松竹文楽興行を行うこととなった文楽座はのちに御霊神社境内大阪市中央区)に移転焼失後の1929年には四ツ橋大阪市西区)に新築移転したが、1945年大阪大空襲再度焼失。翌1946年復興したが、1956年道頓堀弁天座跡(大阪市中央区)へ新築移転した1948年松竹との待遇改善がからみ、文楽界は会社派の「文楽因会」と組合側の「文楽三和会」に分裂したこうした内紛もあって戦後興行成績低迷1963年松竹文楽から撤退し文楽座朝日座改称新たに大阪府・大阪市主体文部省(現・文部科学省)・NHK後援受けた財団法人文楽協会発足し文楽界は再統一され、再出発することとなった1984年には国立文楽劇場完成し松竹撤退後文楽興行して大阪文楽定席役割担っていた道頓堀朝日座(旧文楽座)は長い歴史幕を閉じた2003年、「人形浄瑠璃文楽」が「人類の口承及び無形遺産の傑作」と宣言された(無形文化遺産参照)。 2012年有料入場者数3年ぶりに10万人を超えた劇場開場25周年だった09年度以来2014年日本財団人形浄瑠璃文楽」の普及をめざし「にっぽん文楽プロジェクト立ち上げ東京オリンピック開催される2020年まで年2回の全国公演実施することを発表した2015年2014年度入場者数増加1994年度以来20年ぶりの高水準で、1984年劇場開場以来3番目に多い。平均入場者数は、過去最高となった3月には「にっぽん文楽プロジェクト一環で、六本木ヒルズアリーナに檜舞台組み立てて公演実施した

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