享保年間以降の士分たる家臣の収入
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「享保年間以降の士分たる家臣の収入」の解説
給人地・持高・役料・足高からなっていた。例外的に人扶持が併用されていた士分たる家臣も存在した。また採用初代の家臣は、持高が支給されず籾米の支給となった家臣もいた(経済的には実質、同じことであるが、仮採用的な意味合いや、世襲家禄として認めるか否か保留の意味合いがある)。 給人地が家の格式に応じて、支給されていた。給人地は主として畑として運用された。家の格式が変動しない限り、給人地の面積は世襲されていた。家老(82.2畝)、用人(65.6畝)、番頭(52.4畝)、取次・給人(39.3畝)、馬廻(32.8畝)、徒士(26.2畝)であった。 小諸藩では、者頭・物頭・徒目付を連綿する家の格式としては、設定されていなかった。中小姓については、別に説明がある。 給人地は、家の格式に応じて、一律に定められたが、持高は、同じ家老の家柄であっても、例えば230石もあれば、227石もあるというように、差があった。 幕府の足高の制と、本藩である長岡藩の宝暦の制の影響を受けて、小諸藩においても、足高の制が導入された。家の格式に応じて定められていた持高より、高い役職に就任した場合は、役高支給基準と、持高との差額を足高として支給するという制度である。つまり持高が250石未満の者が家老職となった場合には、その不足分を足高として支給するというものであったが、例外も散見され絵にかいた餅のようであった。 役高支給基準として、家老(250石)、用人(180石)、番頭・者頭(160石)、取次・給人(85〜48石)、馬廻り(45石)、徒士(40石)とする大雑把な基準があった。 小諸藩の持高は、家の格式に応じて支給される世襲家禄に近い性格を持っていたが、無役であると持高とはいえ減石の対象となったので、持高が完全な世襲家禄とはいえない側面もあった。一方では幕府の足高の制では、無役の旗本には、小普請金などの名目で課徴金を徴収して実質的に減石としたが、形式的には世襲家禄の減石処分を行っていなかった。他方、小諸藩の場合は、無役のときは、持高の減石処分に直接、踏み込んでいた。 無役のため減石された後も、比較的高い俸禄を受けていた例は、小諸騒動の時期を除けば次の3例が確認できる。第1に真木兵橘(真木権左衛門家)が、化政期、病身で長期無役となったとき持高を170石に減石された。第2に牧野須磨之丞(牧野八郎左衛門家)が、寛政期、父に罪があり縁坐によって、懲罰を受け無役となったとき持高を150石に減石された。第3に牧野勝兵衛(牧野八郎左衛門家の分家)が寛政期に病身で無役となったとき持高を150石に減石されたが、この事例では、惣領が部屋住み身分で召し出しを受けて、相応の出世をして俸禄を受けていたので、前2者の減石とは、やや性格が異なる。 9代藩主康哉が登場してからは、家の格式に応じて支給する持高と、役職に応じて支給される役職給とに明瞭に分け、足高支給は限られた例外に留めるようになった。 家臣の持高制を定めることに成功したのは、9代藩主康哉の治世より、かなり前の文化年間以前であることは、確実であるが厳密には特定できない。当初は重臣だけが持高を定め、やがてすべての家臣の持高が定められた。 小諸惣士草高割には中小姓という役職は見て取れるが、中小姓という家柄・格式は存在していなかった。しかし、その後の各種文書によると中小姓格という格式を記述した文書が珍しくなくなるため、格式の成立は不詳であるが、馬廻りと、徒士の中間に中小姓格という格式が設定されたものとみられる。ただし、連綿する家の格式として設定されたかは、確実な史料がない。 役料は、9代藩主による制度改革が行われるまでは、江戸留守居役など、公費として請求しにくい職務上の経費が多い、ごく限られた役職だけに支給された。
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